The distinction

なにか書かなきゃという未知の力によってキーボードを打っているけど、ついぞ喋る言葉が見つからない。年が明けてから沈黙を増やすことが多くなった。適切なことを適切な人に適切な方法で語るということを考えている。意識のリソースが限りなく小さい人間にとって、一年の区切りを生み出してくれる年という概念は有用だな、ということとか、そういうくだらないことも。

興味のあることばかりを追っていると世界が狭くなる、というけれど、興味のあることを追わないと言葉が生成できなくなる、みたいなことはあるような気がする。圧倒的な文字の渦におぼれて息ができない、みたいな、自分の何倍もの濃度で質量が存在する、みたいな、そんな場所で窒息して、自分の目がかすんで、脳の裏側がじわじわと黒に蝕まれていって、はじめてぼくはぼくの個別さに気が付く。境界のあるこの身体をどう記せばいいのかわからないし、記すということがどんなことかもわかっていない。もしかしたら自己主張をしたいだけなのかもしれない。でも、一個の人間だということをみて、そしてだんだんそれはどんなことなのかわからなくなるということが起こっている。有機的な配列がこの営みのすべてを吐き出しているのなら、ぼくはなにもかもの境界をどこに定めればいいんだろう。文字を生み出す衝動としてのシグナルが、帰り道に見ることができるネオンと同じだというのなら、ぼくはもう少し何者でもないという気持ちで溶けて、別のものになってしまってもいいような気がする。

日々を生きるのが難しいのはずいぶん昔からのことで、技巧をこらしてうまくやっていくけれど、それが通じなくなれば塗り重ねられた絵具はばりばりと音をたててはがれて崩れ落ちてしまって、そこからまた行動様式の理想モデルを構築しはじめる。
幸いそこに念入りな観察がいらないということがぼくの唯一の秀でている部分みたいなもので、そこかしこに無数に乱立している社会に適応しようとするときに、即座にきちんと最適解を導き出してしまう癖がある。その最適解を自身に適応することの辛さはその社会によって違ってくるから、やはり他の人みたいに合う合わないみたいなものがあるのだけれど、コーティングを塗り重ねすぎてしまったせいで、ぼくはなにがぼく自身の最適解なのかわからない。アニメもゲームも漫画も本も、勧められたものはなんでも面白いと思うけど、ぼくには好みが生まれない。二十数年生きてきたけれど、あらゆるものを思想として解釈する以外の評価ができなくて、好きなものを語るなんていう場ではいつも条件式をつけたがる。社会に基盤として蔓延している好みがどんな構造なのかわからなくて、ぼくはいつもその表層だけを読み取って模倣する。
ミュータントはいつか他人の塩基配列によるその画を見ることができるのか。

結局ぼくはひとつの粒子みたいにひたすらどこかに浮遊するしかない。意思というものがなんなのかわからなくなってしまったし、その言葉でなにを解釈することが適切なのかもわからなくなってしまった。みたいな、ような、という言葉を多用するのも、ぼくの解釈や言葉の使用がひとと一致していないという、自信のなさの表れのようなところがある。絶えず区切りを強いられる場所で区切り方がわからない、ということに尽きるのだけれども、断絶がなければなにも生まれないということは理解しているつもりだし、いいかげんあきらめてしまえば、と思っているぼくもここにいる。
ぼくがぼくの定義と文法で話し始めたとき、そこになにが生まれるのか本当にわからない。少し恐ろしくもあり、もうこんな宙ぶらりんな苦しさは置いていきたいという気持ちもある。
機械と人間についての本を読んだらなにかが解決するかと思ったのに、ぼくは世界の在り方が解釈が余計にわからなくなってしまった。

意思、定義、断絶、内包、原子、ぼくの指先でキーボードが跳ね返る感触。
深夜の暗さに染まって区切りが曖昧になるその世界が好きだけど、そんなぼくを、ぼくはまだまだ子供だなと思う。

それはだれのための涙

よくわからないけどとりあえず呼吸のしやすいようにやっていく、ということができないままでいた。

詩は詩でなくてはならないし、物語は物語でなければならなくて、こうしたほうがいいよってことがだんだん義務になっていって、それが本当に正しいのか疑う回数が増えた。これはほんとうに在るんだって言えることがなくなっていった。

なにが悪いのかはっきりさせることが本当にいいことなのか、ここがこうだからいけないって思ってそれを直さなければって思うことはほんとうに何かのためになることなのかわからない。どっちだっていう確信はできないけれど、それでもぼくは、呼吸ができて、ぼくは正しくて、ぼくの思っていることが絶対に間違いとは言えなくて、ぼくがここに居ることには違和感がない、当然のことで、そういうことなんだと、そうあるんだってことを、諦めたときにやっとぼくは他の人の認識とこの世界の不正解と悪辣なまでのどうしようもなさと、そのやさしさとうつくしさを全部まとめて飲み込むことができる。それが「ある」と言えるようになる。

ぼくがここにいるってことを、泣いていますっていうことを、しょうがないなあって笑えよって、できなくてもいいよって言えよって言ってるってことを、変な子でごめんねって、ひとりで何でもはできなくてぜんぜんすごくなれなくて、強くなれなくてごめんなさいって、そう言ってるっていうことを直視すれば、ぼくはそこに在ることができる。ぼくのまなざしの上に弱っちいぼくのきらめき、そのほんの少しでも、かけらでも映り込んだときに、ぼくはぼくのことを認識して、在るんだ、って思うことができる。

世界はすごく痛いものだし、なにかとてもすごいものなんて実は転がっていなくて、それはぼくがどう見るかということにかかっているはずなのに、ぼくが居るってことを見ていなければそれらを見られるはずもなかった。世界はすごく苦しくて救いのないものだってことを認めて泣きながら罵ってしまえばよかったのに、ぼくはいつまでもそこにはなにかすばらしいものがある、って思っていた。ぼくは全部自分のせいにしたかったし、なにか他のものが悪いんだって言いたくなかった。でも他のなにかが悪いって言うってことは、ぼくがそのすべての担保を負うってことで、それは本当は全部自分のせいだって言うことよりももっと大変で、ずっと強くなきゃできないことなんだ。なんでそれが悪いのって言われたときに説明ができないのが怖くて、ぼくは自分が間違っているのが怖くて、ぼくに見える正しい道を考えて喋っていたけど、そうじゃなくて、ぼくはなにかを悪いって言いきれるほどに自分を担保できるような強さを持ってなかっただけだった。自分を背負わないまま、そこになにもないような、ただなにかを受け入れるだけの空虚、そうとしか思えないのは、その奥底に声を奪われたぼくが居るからだ。なにが良いことで、なにが悪いことか、そういうことをただしく言えなきゃいけなかったし、言えなきゃいけないと思ってた。自分の声を剥奪されたぼくはいなくなって、質量分の黒い塊だけがそこに残った。でもその空虚を見て、ただの黒い塊だって思って、じゃあここになんでも入れてしまえばいいよそうすればなにも言わなくて済むから、世界のことばを借りて喋ることができるからなんてそう思ってたってなにも辻褄は合わないのに。

ぼくは誰かに「きみはこんなひとだ」と表現されたくて、それを聞いて笑いながら「そうなんだよ」とか「それは実は違うんだよ」とかそういうことを言いたかった。ほんとうは「きみはすごい」とか「いいひとだ」とか言われて笑ってありがとうって言うような、そんなことはしたくなかった。それでもなんで求めたのかというと、それだけがぼくの中身だったから。世界のすべてを笑って許すことができるのに、それが間違っているんだったらぼくはどうすればいいのか本当に分からなくなってしまうから。

ぼくがぼくの言っていることに意味があるんだって言いたいなら、まずぼくに意味があるんだって言わなきゃいけないのにね。

ぼくはすぐにいろいろなものを言葉で汚染してしまう。ぼくはこういうひとでとか、こういうものが見えてとか、こう思っていてとか、自分の嘘に気づかないまま言葉という膜で覆ってわかったと思ってしまう。そうして人生はぼく自身の壮大な嘘を暴くゲームになってしまって、でもそんなこともわからなくて、ぼくの言葉がわからないのに、ひとの話に言葉を付けてわかったって言ってしまう。ぼくはぼくのことなんてなにひとつ見付けてあげられていなかったのに。
だから紡ぐ言葉がぜんぶ花になってしまえばいいんだ。

ぼくはきっとこれからたくさん喧嘩を売る。世界が悪いんだって言うし、システムのせいだって言うし、家庭のせいだって言う。それがぼくの判断で、ぼくがそう言ったっていうことをがんばって認めたいし、そしてその判断が間違っていたら、それはぼくが間違っていたと思う、って言って請け負えるようになりたい。ぼくがそう思ったっていうことの根拠を引きちぎってしまわないように、ぼくがそう思ったのはぼくがやったことなんだってことを無視しないように、ぼくが居るってことから目を背けてガムテープで口を塞いでしまうような、そして他の誰かに笑顔を向けてあなたが正しいに決まっていますって言うような、そういうことをしないようにしたい。

ぼくが言ったことはぼくの存在だったんだ。
ぼくが思った悲しみと怒りと不条理はぼくの存在だった。
世界に対する慈しみも、優しさへの涙も、無器用さへの嫌悪も、内側に密かに巣食う偏見も、ぜんぶ、ぼく自身だ。

そこにいるの知ってるよって、存在することになにひとつ悪いことはないんだよって、今のぼくはそう言いたい。
だめなところだってそれはぜんぶぼくだった。

ごめんね。愛してる。



 

がらくた状の反証

なにかを言葉で理屈付けて説明しなきゃそれは在っちゃいけないんだよなんて誰が言ったの。

世の中にはことばが蔓延していて、ストレスがよくないだとか、決まりは守らなきゃいけないだとか、本を読んだ方がいいよだとか、運動した方がいいよだとか、これはかわいいこれはすてき、ありとあらゆるものを説明して、言葉自体というそれは道具のように見えるけれど、ぼくらはそれをどんな気持ちで使っているの?

ぼくらが表すのは自由だと言われたらそれはぼくらが自由であることを意味するのだろうか。なにひとつ上手く伝えられないままで、吐瀉物のように言いたかった残骸だけをはき出して(わたしの趣味は、だとか)、言いたいことを言っていいのよ、と言われるとその瞬間にぼくの言葉は喉の奥でしんでしまう。言いたいことがなんなのか判るようになるまでにあとどれくらい不完全な部品を吐き続ければいいのだろうか。ぼくの言いたいことは言葉になるのだろうか。道具を道具だと思える日が来て、使えるようになる日がくるのか、言葉にふれて、そのかたちを、手触りを、温度をみて、そうこれがまさにぼくの言いたいことなのだ、と言える日がくるのか。

なんにもわからないのに喋らなきゃいけない日々が続くように、なんにもわからないのに送らなきゃいけない日々が続いている。寄る辺なんてない、なにかを正しいって言ってしまったほうが楽なのに、ぼくは自分への反証の反証に反証を重ねている。
くずれおちるミルフィーユ状の反証をぼうっと見続けてわかるのは、正しいことなんてないから、ぼくは自分のなにかを正しさにしなきゃいけないということだけ。でもぼくは自分のことだってなんにもわからない。

ぼくはいつも「それはなぜか」という問いを投げてしまいすぎる。きっと明確な論拠がなくては言い切ってはいけない、と思っているんだろう、まるで人間社会のゲームに適応するあまりに人間であることをやめてしまったみたいだ。

言葉で理屈を付けなきゃそれは在っちゃいけないってそれはぼくが言ったんだよ。
だってそれは在るんだなんて言い切れる強さを持っていなかったからね。

ぼくのすべてはセンサーの強さだ。恐怖も失望も悲しみも自責の念だって、強烈に感じることがなければきっとこんなに悩むことだってなかった。ぼくが言ってることはなにかの転移に過ぎないなんて考えることだってなかった。すべてに答えを出さなきゃいけないなんて追い詰められること、も。
こうして転嫁することが本当に正しいのかと思うこともなかったんだろ。

この苦しみがなにを生み出しているのかぼくにはまだわからない、積極的分離が発展していくのか、それとも否定的分離でおしまいまで向かってしまうのか、ぼくにはまだわからないけど、きっとその過程で生み出す吐瀉物がぼくのすべてだ。


 

苦痛の所在

「誰かぼくをぼくが平均になる世界に連れて行ってよ」

ぼくは最近誉められること、というよりはもう肯定されることにすら苦痛を覚えてしまうようになって、別にぼくだって何ができるわけでもない、人よりほんのすこしだけ器用で語彙が豊富で、世渡りが上手なだけ。本当にそれだけで、特技らしい特技だってない。なのになんでみんなそんなにぼくを「何の問題もないいい人」にしてしまうのか。
ぼくにだってできないことはたくさんあるし、必ずしもいい人ではないのに。平均的に見て問題がないかもしれないけど、そもそも平均で見て判断するようなことじゃないのに。誰だってできることとできないことがあって、ぼくはその視点で見ないときちんと人が見えないと思っているのに。

ぼくはなんで苦しいのか?なにが嫌なのか?この評価がぼくの視点では間違っているから?同じ程度の人が少ないから?みんなにきちんと見てもらえないから?ぼくができることもあるけどできないこともあって、無理してできないことをできるようにしてるから?それで疲れてしまうから?
具体的に「本当にダメなやつだな」と言われるときっとすごく安心する。きっと力が抜ける。ちゃんとしてなくて、何もできなくて、知らないことばっかりのぼく。
「優しくて何の問題もないいい人」がすごく嫌だ。

「ぼくの意識は『楽だ』という事実に基づいて窒息して死ぬ」
「だれもが優しすぎてぼくは甘すぎるので世界がうまく回らない」
「ただぼくは優しくなりたくて、世界のすべてが反対したとしてもぼくだけは自分を信じていられるような、たとえば、それくらい強くなりたい」

ぼくは今もまだ自分の至らなさをきれいに説明しようとする癖があるけど、いまはこの原因が「日常がチャレンジングではないこと」だと思っている。
ぼくはたぶんめちゃくちゃな完璧主義で、ありえないくらいの倫理観を持ってしまっていて、その強さがでてしまった形なんだろうと。ぼくは誰だって許してしまいたくて、全部ぼくのせいにしても笑っていられるくらい強くなりたくて、ぼくの人生をぼくの責任で歩いて行きたい。たとえばその出来事も、解釈も、出会う人々の発言でさえ。でもぼくのそっと押されただけで吹き飛んでしまうような強烈な感情はそれをとても難しくしていて、ステップを踏んでいくことはぼくにとって本当に難易度が高い。
ぼくは自分がそういう人間になりたくて、でも今のままじゃあ全然なにも足りていなくて、本当はもっと優しく強くならなきゃいけないのにみんなに肯定されて誉められるからぼくはいつもその位置で甘んじてしまう。だからこれは、きっと手酷いぼくの弱さだ。
贅沢で論外な苦しみ、ぼくの見定めている物と現状の行動はひどく矛盾している。
少なくとも、こうして理論付けをした場合においては。

でも、贅沢だけど、ぼくは苦しんでしまう。
たとえばそれを価値判断に含めなければ、ぼくは「それでもいいよ」とぼくに言えるんだ。
人の価値判断に委ねられないくらいの特異な苦しさは、ぼくが自分でいいよって言ってあげるしかない。それがどんなに贅沢で、甘えてて、下手をしたら怒られるような苦しみだって、どうしてもぼくにとっては苦しみでしかありえない。

だめなぼくは確かに存在して、なにもできないぼくだって存在する。それは他の人に判断されるものじゃないし、判断されるものじゃないからこそしっかりとぼくに刻みつけねばならない。ぼくしかその存在を担保する者はいない。

ぼくは万能ではなくて、平均とは無関係で、できないことがたくさんある。ぼくのできることがいらないような場所へ行ったら、ぼくは何もできないし、そこでは必死に他のことができるようにならなきゃいけない。だから、ぼくは何もできない。まだ、ぼくはできるようにならなきゃいけない。

きちんと息を吸って、明日も生活をします。




塗布したメッキ

ぼくは自分が何かをやりたいということを知らないふりして生きてきて、それはそれで楽しかったし楽だったし幸せだったけど、言いようのない苦しさだけがただひたすらに悩みの種だった。口先だけがつらつらと滑って、「好きなことを好きなようにやればいい」とか「自分で決めたことしかない」なんて言葉で汚染した。ほんとうにぼくがやりたいようにはやれていないのだということを知らないで、ぼくは苦しみの種をいろいろなものにたとえて見做した。見做してしまえばそれで事は終わったから、ただ自分を納得させるだけならそれでよかった。
ぼくは現実の反発の反発みたいなことをよくしたがって、そうすることによってなんでも在っていいんだと言いたかった。でもなにかを提唱することはなにかへの批判になってしまった。正しいことなんてないんだという提唱は正しいことがあるということへの批判になった。ぼくはこれを正しいとおもう、と言えなくなった。自分で自分を撲殺してきたぼくは、考えたとおりにぼく自身を作り上げたけど、それは適切なかたちじゃなかった。ぼくはそこでようやっと、自分が不器用だってことに気が付いた。
なにかに傾倒することはひとつの視点でしか見られなくなって危険だって、そう言ってぼくはぼくの熱を閉じ込めた。クレバーさを演出して、ぼくはひとりの人間で、きちんと考えていて、ぼくの言っていることには意味があると言おうとした。

 

ぼくは、ぼくの言っていることには意味があるんだと言おうとした。

 

ぼくはぼくの思うとおりにやさしくありたいし、ぼくの思うとおりに情熱的でいたいのに、それだとこの世界ではやりにくいから、ぼくはそんなに強くなかったから、そのままでいることをやめた。ほんとうはこんなに普通の顔をしていられるようなものではなくて、実はもっと外れて遠くにあるものなんだという認識を、いまのぼくはしたかったのかしたくなかったのかよくわからない。けど、ぼくの「変わっている」認識は、この社会でにこにこしながら負荷を感じずにスマートにやっていけるような生易しいものじゃなかった。じゃなかった、ということを、ぼくは知ってしまった。
ごまかしておけばよかったのにと思う。うまくやっていけないのは気候の変動のせいで、バイト先が少し混んだからで、雨が降ったからで、周りの人が喧嘩しているからだってそれでおさめておけばよかったのに。

いままでぼくはほとんどしらない躯体の運用の方法を模索していて、ある程度確立したと思ったけど、それはべつに調べなくてもいいものだった。躯体のことを勉強して動かしていたくせに、その躯体を動かす必要性については考えなかった。

 

自分の生活をシアターで、画面越しに見ていたのは、そうして間接的にしないと耐えられなかったからだ。

 

ぼくは何者で、どこへ行くべきなのか。

楽ということの毒性。特殊であることの悪性。

ぼくが満足に生きる上で必要としているのが「絶えず考え続ける」ということで、だからきっと正しさを求めているわけじゃない。正しさに頼ることは簡単で労力が要らない、すごく楽なことであって、とても魅力的ではあるけど、それを続けていたらぼくは息ができずに死んでしまうということを知っている。

大きな広い道を歩いていてそこがどこに通じているかということは問題にならない。ただ今現在自明であることの上を楽々と歩み続けることが苦痛なだけだ。何も考えないということがぼくにとっての毒となり、絶えず考えるということがぼくにとっての生となる。
意識の楽はイコール意識の快適さにならない。細かな切り傷を作りながら常に道を開拓してゆかなければ、ぼくの意識は「楽だ」という事実に基づいて窒息して死ぬ。

そのことをぼくははやく身体レベルで理解しなければならない。
単純にゲームをしたり映像作品を観たり本を読んだり喋ったりすることではぼくは息苦しいのだということを、早く知らねばならない。そこに何か考える余地のあるもの、既存の理論では語れないなにか、ぼくの新しい領域を開拓する、世界にひびを入れる感覚、それらを持つものが散らばっていることが必要なのだと。ぼくに存在する、意識を受ける感覚器の鋭敏さが鈍り、半分くらい死んだような気分になるのは、お前が他人の生き方を模倣しているからなのだと。

ぼくはいつだって世界を想像でしのいできたよ。ある時期にはぼくには想像上の友達が居たし、その存在について考えたりした。物語の主人公だったこともあるし、自分の意識を虐殺して沈黙を保つ世界で唯一の天才であったりもした。見た目が普通であれればね、どんな世界を展開させたって構わない。そういうことをぼくはもう小さい頃に学んでいたよ。身体と社会的地位が中学二年生になる遥か以前から、ぼくは中学二年生の思考をしていたし、理論だっていわば想像の範疇なんだから、今だってその残滓は感じ取れるよ。

「特別」であってはいけないのか、「独特」であってはいけないのか、ぼくはもうなにがおかしくてなにがおかしくないのかわからない。みんなが独特だとぼくは思っているし、だってそうでなければたぶんぼくは誰が誰だか区別することができない。特別という語の使い方が難しい。程度問題、でもその程度問題を適用する対象が少し間違ってはいないか。厨二という言葉が生まれたのは、なぜだろうか。

ぼくは自分のことをとても特殊だと思っていて、それは周りとの違いの程度が大きいということで、つまり主観的な違和感が強いということになる。これはたぶん誰に測れることでもないし、特殊だから何、と他の誰かが切り捨ててしまえる案件でもないし、特殊なんてないよと言えるようなものでもない。主観的な違和感は存在して、ぼくはそのことによって折り合いの付け方や生き方を模索せざるを得ない。

独特であるということを不思議に思うことの特殊感。矛盾しているような気がする。みんなが独特であるから特定の一人を指して「独特」と表現するのはオカシイ、という理論。
ああ違うか、客観的な独特と主観的な独特は少し意味合いが変わってくるのかな。というよりは主観的な独特はむしろ疎外感と言い換えたほうが適切なのかもしれない。
いや、それともこれはぼくの強引な理論付けになるのか。考察するのは面白そうだけど、ちょっと思考の枝分かれが増えてきてパンクしそうだからまた今度にしよう。
ぼくが言いたいのはただ「自分が特別で特殊だと思ってなにが悪い」ということなんだ。


お願い、誰かぼくに面白い話を頂戴よ。

ぼくの恋愛観について。

ぼくの恋愛観について。

ぼくは言ってしまうなら恋人はいらないと思っているし、ひとりで世界を楽しむことができるならそれでいいと思っている。たとえば誰かと一緒に生きたらそれはそれで2倍、3倍の楽しさがあるだろう、でもぼくは人と親密に、長く付き合っていくことがとても苦手なんだ。ぼくの感性や価値観を理解して受け容れてくれるひとはごくわずかだし、そもそもぼく自身が基本的に他人に我慢ならない。
そして「友人」「親友」までならぼくは大抵どんな人とも付き合うことができる、でも「恋人」になると、その範囲がほんとうにほんとうに狭くなって、ごくごく一部、ほんとうにほんの一握り、一つまみだけ、ということになる。

それが何故なのか考えてみたけれど、どうやらぼくは「恋人」を「他人という括りの中で唯一、自分の世界に直接的に関与してくる人」だと思っているみたいだった。「友人」や「親友」ならぼくはとてもうまく客観視ができる。ぼくの物語に踏み込んでこない、ぼくの生活に踏み込んでこない、でも一緒にいると楽しい「他人」。

前々から話しているけれど、ぼくは自分の世界を、どこか目の前で上映されるエンターテイメントだと思っているようなふしがあって、たとえばこの上映されている映画のなかでどんな衝撃的な出来事があっても、たぶん本当の意味で崩れて壊れてしまうことはないんだろうと思う。実生活ではかんたんに笑うし驚くし泣いてしまうんだ、それが嘘なわけではないんだけれど、そうやって笑ったり泣いたりしながら、ぼくの中では第三者の目で現実を見ているもうひとつの瞳が存在する。それが少し怖くもあって、でも、たぶんこれでぼくが崩れてしまうことはない、と少し安心している。そういう感覚は、道徳的に考えればあまりよくない方に属するのだと思う。目の前でたとえ何が起こったとしても、ぼくは自分の根っこから動じることはない。というか、たぶんできない。それを世間では「冷徹」と呼ぶのだと知っている。

でも、これは「揺らがないこと」と言い換えることができると思うけど、揺らがないことは本当に悪いことなのか。「人間らしい」と言って感情を発露させることが推奨されることの必要性はなんなのか。ぼくたちは社会に生きていて、社会で生きなければならないすがたをしているけれど、その社会のすがたが正しいという根拠なんてない。巷で使われている「本能」なんて言葉の根拠だってあまりにも脆い。ぼくは誰の目を見たってはっきりと言えるよ、正しさなんて誰も強制はできない、ただ自分で創っていくだけだ。ぼくらは自分の経験を重ねて、その中から大切なものを取り出して少しずつ少しずつ積み上げていく。そうして積みあがったものがぼくらの正しさであり、ものさしであり、言語である。社会に蔓延している「正しさ」は、「価値観の大衆性」と言い換えることができる。

というわけで、ぼくの世界は「世界」に対して閉じている。ただぼくは「恋人」というものを、一緒になにかを創っていくもの、また、それ故に唯一ぼく自身、ぼくの世界に入ってこれるもの、と思っているらしかった。だから、「恋人」には開かれているのだ。基本的には。

ぼくは「恋人」として付き合える人の範囲が極端に狭いという話をした。それは、ぼく自身が「自分も相手も、お互いに刺激になれるような人」でないとぼくの世界を開くことができない、と思っていることから来ている。有り体に言ってしまえば、ぼくが尊敬できるような人、ぼくの価値観というものさしで見たときに、どこかの分野ではぼくよりも優れていると思えるような人でないと、ぼくは付き合えない。そうでない人だと、自分を開示することへのひどい抵抗と苛立ち、また失望と悲しさを感じる。そして、そういう人かどうかは、実際にぼくの世界を開示しようとしてみないとわからないのだ。「友人」があまりにもぼくの世界から遠すぎるがゆえに。


たとえば誰かが「それはどうなの」と言ったら、ぼくは「これがぼくの世界のスタンダードだ」と言える。人間はいつだって、うっかりしたらすぐに死んでしまうような「脆さ」という影を自分の中に飼っているのに、そのくせ簡単なことでは死にやしないんだ。ぼくがいくらいろいろなところに飛び込んでいったって、常識から外れた行動をしたって、大衆的でない生き方をしたって価値観を持ったって、ぼくは今まで生きてきたし、むしろ死のうと思っても死ねなかった。そんな理不尽さが少しむかつくけど、いまは感謝することもできる。
二十年とすこし生きてきた今だって、未だに呆然と立ち尽くしているし、少しのスキルだってマスターしていない。生まれたときとなにが違うんだってくらいに無知で、どこに行きたいかもわからないまま手探りでそろそろと歩いている。世界のなにを知れるって、ぼくなんかが何かをきちんと知れるわけがなくて、それでもぼくは何かを知りたいし、少しでも物の名前がわかるようになりたい。ぼくが何を好きなのか知りたいし、世界がなにを考えているのか、ほんのちょっとでも考えてみることができる方法が欲しい。だからぼくは知らない言語を練習するし、新しい語彙を探すし、様々なところに出かける。ことばでぼくの世界を整理する。日本語にしか表せないものがあり、英語にしか表せないものがある。

ぼくらはいつだって自分のことを赤子だって思っていいんだと思う。
いつだって、何をやってみたっていいんだと思う。





きっと、そうやってぼくらは自分の世界を創っている。