構造か、果たして様相か

その全てが自らの自己責任であり、一種の自傷であるのだと、ぼくは本当は知っていた。自分を罰さねば生きてゆけないなんてきれいな言葉で収まってしまえればいいのにね、そうしたら、ぼくなんてそれに満足してあっという間に終わってしまう。

そうして物語は終結する。

 

ぼくは時々、ぼくの世界を勝手に滅ぼしてしまうんだ。

たとえば今、背後から刃物で一息に刺されてしまったら。

たとえば今、宇宙からのなにかの飛来により、地球上の水分や酸素が一気になくなってしまったら。

たとえば今、どこかで秘密裏に打ち上げられた核爆弾がこのあたりに落ちたとしたら。

たとえば、今、現実を認識する暇もなく、斧で首を切り落とされてしまった、なら。

世界は終わるだろう。そして、とあるひとつの世界は終わったのだ。ぼくの想像によりとあるひとつの世界は、その物語の終焉を迎えた。

この目の前の世界は別のものだ。終わる可能性をいつでもいつまでも秘めていて、それでも終わってはいない、おそらく連綿と続いていくであろう、とあるひとつのぼくの人生。

 

たまに考えるのだ。時間は、時間という語をぼくたちが使用するから存在しているわけで、時間そのものなんてどこにも存在しない。世界がぼくと共に変化している、ただそれだけで。

ぼくの思うぼくのはじまり、社会の規定するぼくのはじまり、そんなものは所詮ぼく自身や社会自身の内にしか存在しないのだ。

 

 

 

落ちた葉を踏みにじる感覚と、すべてを剥ぎ取るような冷たさが、ぼくに秋を知らせる。

 

愛するものへの懺悔


ただひたすらに、全てのものが懐かしいと思う。

時は存在しなくて、ぼくらの内にはただただ感情や自己の変化のみが存在している。だからこれは普段ないような感情の―自己のものの感じ方の―変化なのだろう。
もう取り戻せない愛おしさ。決別した相手と「楽しかったね」と笑いあうことはきっともう二度とできないことの愛おしさ。「ごめんね」と言って仲直りができたらいい、できなくてもいい、それはきっとどちらもかけがえのないことだから。

論理が好きだったよ。様々な人を傷つけてでも正論を振りかざし「ぼく」を護った。論理を根拠に、思考の正当性を主張した。何故ならその頃のぼく自身の正当性は、その論理の整合性にあったからだ。

今はもう、人間に正当性が必要だという観念は消えている。でも、その頃のぼくだって、本当は知っていたんだ。その方法、根拠こそが間違っているということを。

だから、ぼくは必死にぼくの正当性を壊してくれと願った。魔法さえ解ければ、その魔法の正体がよく見えると思っていたんだろう。それはたぶん間違いじゃあなかった、でもぼくは論理の正当性にこそ自身を委ねている訳で、その論理を壊されるのは殆どアイデンティティ崩壊の危機と言ってもいいくらいの恐怖を伴う。だから死に物狂いで、本当に必死に武装して、間違っている者には容赦なく間違っていると放ったんだ。強迫観念に背中を押されてね。そんな姿を滑稽だと思ったぼくは、理由なんてものは適当にでっちあげて助けを求めた。暴走するぼくを誰かに止めてほしかったんだよ。ぼくが誰かをどうしようもなく傷つけてしまう前に、一片の狂いもない正論でぼくの論理をぐちゃぐちゃにしてほしかった。目を覚ませと殴られるような優しさが欲しかったんだ。

あの頃、ぼくに挑んでくれた人が何人かいた。きっと彼らはみんなとても優しくて、優しすぎて、無意識下でひとの心をよく理解してしまうような人間だったのだろうなと思う。
きっと、認知してる分では純粋に疑問を持って質問をぶつけたのだろう。救いたいなんてこれっぽっちも意識にはなかっただろう。たとえば彼らが今これを読んだとしても、そんなことはないと言うかもしれない。だから無意識下について語ることはほんとうに無意味だ。正解なんてわかりはしない。きっと存在すらしない。だからぼくは勝手に定義するよ、なぜなら君たちにごめんねとありがとうを言いたいから。

正論という武器で固めて、正論という名の武器で刺し続けた。
それがたとえ自己防衛であったとしても、ぼくは本当に申し訳ないと思う。自分が刺されればいいのだと思う。彼女は別れる時の挨拶でさえも、礼儀正しく「正論」という土俵の上で行ってくれた。そうして棄権をした。
その正論という兵器を甘んじて受けたのは、議論に参加した相手の方だ。強制してもいないのに勝手にフォローして傷付いたのは、相手の方だ。それはおそらく確かに正論ではあるのだ。
ただぼくがそれを自分の考えとして許さないだけで。


彼女がここを見ているかわからない。だから言い逃げをする。
きみのその優しさがだいすきだった。
なのにそれを踏みにじって、幾度も刺した。あの発言は殆ど故意だ。
きみがぼくのことをそう思わないとしても、ぼくはぼくのことを最低だと思う。
踏みにじったのも惨たらしく刺し続けたのも事実だ。ただ、その表情は涙でぐちゃぐちゃだったってことも事実なんだ。
赦されなくてもいい、ただきみに心からのごめんなさいとありがとうが伝わればいい。
エゴを放ることしかぼくにはできないから、ならばせめて愛の形で。



嫌になるくらい不器用なぼくだ。
何も言わなければいいのに、こうして言ってしまう脆弱なぼくだ。



正しさの踏み躙られ方

ぼくにとって、たとえばある日突然母親が息絶えてしまうことの理不尽さと、社会において正しさという概念が通用しないことの理不尽さは、全く同等である。
程度問題というのはその大抵が個人の価値観に依存するものだと思うし、そこに折り合いこそあれど絶対的な正解は存在しないだろう。また、感情的なことは理不尽さとは別の領域だ。感情的なことの理由に理不尽さが存在することはあっても、理不尽さの理由に感情的なことがあってはいけない。これは、どちらが上位だとか下位だとかの問題ではない。性質の問題だと言いたい。

なぜ、大抵の場合において、前者の方が後者より「重大な出来事」だとされるのか。人間だからか。ではなぜ、人間であれば、それが重大とされるのか。あるいはなぜ、後者は重大でないのか。
そういう生き物だからという説明はほとんど説明の機能を果たしていない。なにか現象のトートロジーで事を済まそうとしているような性質さえ感じる。
ああ、愚かでひどく愛おしい知的生命体だ。

1000年後も人類が存在していたなら、きっとぼくらのことを野蛮だと思うだろう。完璧であれない限り、こんなことは結局相対的なものでしかないのだから。

伝える意図のない説明だ。
そしてまた、大抵の場合において、通用することのないであろう駄論だ。
そのことをぼくはようく知っているのだ。


(2016.08.16)

ぼくの未熟さについて

ぼくは至ってまだまだ未熟なのだ、と思う。湧き上がる怒りも、理不尽に対する正論の言葉も、ぼくが未熟だからこそ考えて、また感じてしまうのだと。そう考えた時、ぼくはどうしようもなく悲しくなる。怒りを感じるぼくに悲しみを憶える。
だって、その姿は本当に可哀想だ。

前より苦しみを感じなくなった。受け容れられる物事が格段に増えた。穏やかになった。物わかりがよくなった。自己と他人を分化して考えられるようになった。「そうかい」と言えるようになった。「じゃあ、仕方がないな」と言えるようになった。それらはほんとうに良いことだと、ぼくは思っている。
そして昔の苦しんでいた僕に少しの未練と郷愁と愛おしさと寂しさを憶えて再び「仕方がないな」と呟くんだ。

それでも時々泣き崩れそうになってしまうのは、やり場がなくてどうしようもないような肥大した正義感、また現実の社会に通用しないような正論を携えて呆然と立ち尽くす僕が、ひどく哀れで仕方がないからだ。きっとぼくはまだまだなにも分かりきってはいなくて、正論にしがみついているのだろうと思う。だって今のその哀れみには、感情移入も混じってしまっているのだから。
君の言うことは正しいよ。常識は決して普通などでは在り得なくて、論理のみがただひとつ普通で在り得る、君の文法ではそうなのだとぼくにはわかってる。言いたいことは痛いくらいによくわかるよ。だってぼくだってそう思ってしまうから。でも、ぼくたちの生きる世界は、そんなに易しくできていない。

正しさ、正義、普通、もしかしたらとある文法では真理と形容するかもしれないようななにか、その姿を追い求めてぼくは哲学へ辿り着いた。
人間の間での言語使用について。
すべてのヒトに共通するなにか。
ぼくらの原動力。

答えは未だに見つからなくて、この探し方が正しいのかすら解らない。けど、解らなくても止められないのがきっと「ぼく」という人間なのだろうと思う。

泣きたいような愛の正体

ぼくは、思っているほども、思われているほども、これっぽっちだって強くはない。いつだって耐え難い悲しみや絶望や、もしくはあふれるほどの愛おしさに支配されている。ぼくの世界はいつだってその相貌を容易に変える、おそらくどうやっても完璧には表せられないような色を映す。

周りに蔓延る死に耐えられない。記憶の中で、ぼくの世界で、確かに動いて喋って笑って泣いていたものがぷつりと途絶えてもう指の先だって動かさなくなる。もう彼らが動くことはない。ぼくの知っている彼らが彼ら自身の意思を表明することはもう、永遠にない。断絶された円環を目の前にして、それでもぼくは今日を生きてる。

少しだって強くない。いのちを失った彼を目にすることもできない。追憶の中でしか悔やむことはできない。たとえばそれは薄情だろうか。
ぼくがたとえば、とよく言うのはきっと、それがなにかを限定する言葉じゃないからだ。なにも限定したくない。誰にとっても、何にとっても、すべては開かれていてほしい。すべてが行きたいところへ行ければいい。ぼくが泣いていたとしても、みんながきみは泣いてないと言えるような世界を渇望している。

なんだってほんとうじゃない。なんだって、ぼくの知覚でしかない。でもそれはなんだって本当だということと同じで、その差異がときどきぼくをひどく苦しめる。でもぼくはなんだって大好きだし愛している、苦手だと感じるひとだって、さようならを告げてしまったひとだって、ぼくが傷つけてしまったひとも、ぼくはみんなみんな泣きたいくらいに愛している。そしてすべてのものにごめんと言って泣きたいと思っている。
裏切られたって傷つけられたって殺されたって、また裏切って傷つけて殺してしまったとして、ぼくは愛おしさを捨てることがたぶんできない。その行為をどれほど罵られてそしてぼくがどれほど懺悔の念を持っていたとしても、ぼくはその罵った人の思うような償いができないかもしれない。でも耐え難いような痛みは感じている、
信じるということ。


すべてを愛している、故にすべてに絶望する。
そしてだからこそ、ぼくは愛することを止められない。
絶望と悲しみと愛はひどく似ているような気がする。



きこえていますか、
見えていますか
きみが好きです。
きみのことを何も知らなくても、
生きて存在している、そのことにぼくは涙を流す。



なにもできなくてごめん、
どうかきみがきみで在れますように


愛しています。



隔離空間の所在

優しく奏でられるような
やわらかな言葉の不在
ぼくの舌に生い茂る棘さえも
何も語らない時の狭間だ

声をかけられて
振り向いたら誰も居なかったと思ったのは
一瞬のことだったか
ぼくらはいつに生きているか
あの真白い空間は
その住所は、
ぼくに知ることができないものか
リノリウムの床にこぼれた言葉は
世界に解されないまま、
きっとどこまでも存在している

髪をさらう風は
ぼくの知らないところへゆくだろう
あるいは
広がる青空は
ぼくの知らないところにあるだろう
その下で
めを閉じ
息を吸う
なにも見えなくなる


ここは
果たしてどこに
存在しているだろうか


世界組成


虹色の
薄氷の張った川を
ぼくはそっと踏んで歩く
踏んで歩く

鮮やかな世界が
ぼくの目の前で散ってはじけた
粉々になった破片は、
肩や喉に刺さる
そうして降りつもる
ぼくの色彩は変わらない
殆ど永遠に

暮れては昇る月を
優しいものを見たい
何よりも愛していて
惜しみなく好きだと言えるようなものだ
いくら言葉を尽くしたとしても
なにも言っていないのと同じくなるようなものだ

ぼくの体組成は
半分がきっと悲しみでできている