光る双眸

ぼくが夢見ていたあの星には、
もう永遠に手が届かないのかしら
当然のような顔をして薄氷の上を歩く
真っ直ぐ前を見つめて
力強く足下を踏みしめる
氷が割れることはない
その裏にあるものを、
ぼくは見て見ぬふりで殺している
きちんと息ができなくなるように
ていねいに殺さなきゃならない
もう二度と息を吹き返さないように
きちんと最後まで殺さなきゃならない
だって、それは呪いだから

ぼくの見てた星は、
たぶん誰にも見ることが出来ない
たとえば誰かが
それは童話だと笑うかもしれない
それならぼくはそうだよと笑うよ
だってもしかしたら、
そんな星はぼくの想像でしかなかった
ありもしない、
美しい幻の星。
あそこを目指して進んでいけば、
いつか君は苦しむことがなくなると
たくさんの仲間ができると
言ったのは誰で
信じたのは、
果たして誰だったか


掃いては捨てるほど溢れている人間
飽和する価値観
それを真っ白に染めてしまったら、
ねえ
世界はようやく面白くなるだろうか
ぼくが口の端を持ち上げられる程度には
不思議な様相になってくれるかな

あのね、
隠喩を剥いだあとの肉塊を
ぼくは愛することができるだろうか

愛せなくなるのが怖いのだと
青ざめた顔をするぼくの横顔は
彼が愛する人間達に、少しだけ似ていた

明くる日

 

吐く息がしろく染まっても
それは世界が一周したことの理由にならない
地平線の向こうが見たかった
ぼくの思う、理想の向こうを見たかった

 

ごとり、と音を立てて
ぼくの頭蓋は朝焼けを見る
崩壊した世界を映すその眼は
捉えきれない黒だった
その内側に詰まる胎児の記憶を
彼はきっといつまでも大切にする
そうやって、

いつまでも海に行こうとする
埋め合わせをしようとして、
真黒に染まった手を
きれいな星空に翳して
彼は、
いつだって朝焼けしか見ることが出来ない
堕ちたって誰にもなれない

 

行き続ける時が、
ほんの気まぐれでかつてを目指す
その先にあるのは
愛おしいぼくらの亡骸
太陽が死んだその欠片
すべてを知りたい双眸が
地平線の向こうで微かに笑うのを
君は確かに
この目で見たんだ

 

生の意義

内省できる言葉を持っていない、ぼくはいつからか無くしてしまった。しばらくブログに触っていなかったのは、まさにそうだったから。

でも、だからこそ無理矢理にでも言葉を吐き出すことにしたのだ。そうしないとぼくは死んでしまうような気さえしたから。

それがぼくに科せられた生きる上での枷のような気すらするから。

 

美しいものを見たい。

ぼくの願いはただそれに尽きる。

 

ぼくの日常は、その殆どすべてが余興、エンターテイメントに過ぎない。それ以上でも、以下でもない。なぜだろう、きっと、自分の身に起きたことすらもそうなのだ。他人を反響板にして、まったく大変だと言った風情でひとつの物語を語って、ただそれを楽しんでいる。

もしかしたらどうでもいいのかもしれないね、現世で起きるそのすべてが、もしかしたらどうでもいいのかもしれない。ぼくはいつ死んでしまってもそうなってしまったならそれでいいと思う、それは死にたいということでは全然なくて、生を重要なものとして捉えていないと、きっとそういうことなんだろうと思う。生きても、生きなくても、どちらでもいい。今は生きていて楽しいから死を選びはしないかな、みたいな。死ぬことのリスクは計り知れないくらい大きい、でも断じて選ばないという程ではない。ぼくの頭で考えて、現在にも未来にも楽しみやなにかが見つからなければきっと簡単に死んでしまうだろう。

だから、たぶん全ては面白半分なのだ。今でもぼくは、社会に生きる人間としての「ぼく」を演じ続けている。それを辞めたら、ぼくは社会の仕組みの内側で息ができずに早々に死んでしまうだろう。マトモに考えたら動けないような社会だ、言葉を発するための一呼吸すらできないような社会だ、ぼくにとっては。

生を重要なものとして捉えられない、ゆえにその生の上で起こることも、なにか重要なこととしては捉えられないのだ。だって意味すらも人間が作り出した観念でしかない、たとえばその意義だって人間によって違うけど(一般的に価値観と呼ばれるものによると思う)、ぼくにとっての意義は生という土台の上に乗った時に初めて価値を持つ。だから、生という土台を価値として認められなければぼくはいつまでもその上のなにかに価値を見出すことはできない。

 

だから、ただ、美しいものを見たい。

モノレールから見下ろす景色や冬の夜の澄んだ星空、愛おしく輝く存在がただ見たい。

ぼくが美しいと言おうが言うまいがなにも関係なくただそこに存在する美しさが見たい、残酷なまでのどうしようもなさ、ぼくがなにをどうしたってなにも変わらないような姿が泣きそうなくらいに美しいと思う。だからきっと星空も空気の冷たさもなにかの死も美しいと思うんだと思う。

もしかしたらその美しさだって余興かな、でもいいんだ、ぼくがいなくなったその後も、生という土台それすらも無くなってしまったその後も、それらは変わらず存在していて、いつか無惨に消えてしまうのだろうから。

 

もしかしたらどうしようもなさを愛しているのかもしれないね、どうにでもできるぼく自身の生の内側で、いつまでも変わらずにぼくが否応なく美しいと嘆息してしまうその姿を、ぼくは、愛しているのかもしれない。

 

ぼくはもう少しちゃんと「ぼく」として生きていきたいと思う、でも人間は社会で生きていかなくてはならなくて、そっちの方が余程労力が少なくて済んで、ぼくはそっちを選んだ。

いまの姿も嫌いじゃない、でも時々自分自身に戻らないと呼吸ができなくなってしまう。

 

それでもどうやったってなにをされたって、きっとぼくは人が好きなんだろう。

そう、きっとぼくは、人が好きなんだろう。

 

 

 

 

構造か、果たして様相か

その全てが自らの自己責任であり、一種の自傷であるのだと、ぼくは本当は知っていた。自分を罰さねば生きてゆけないなんてきれいな言葉で収まってしまえればいいのにね、そうしたら、ぼくなんてそれに満足してあっという間に終わってしまう。

そうして物語は終結する。

 

ぼくは時々、ぼくの世界を勝手に滅ぼしてしまうんだ。

たとえば今、背後から刃物で一息に刺されてしまったら。

たとえば今、宇宙からのなにかの飛来により、地球上の水分や酸素が一気になくなってしまったら。

たとえば今、どこかで秘密裏に打ち上げられた核爆弾がこのあたりに落ちたとしたら。

たとえば、今、現実を認識する暇もなく、斧で首を切り落とされてしまった、なら。

世界は終わるだろう。そして、とあるひとつの世界は終わったのだ。ぼくの想像によりとあるひとつの世界は、その物語の終焉を迎えた。

この目の前の世界は別のものだ。終わる可能性をいつでもいつまでも秘めていて、それでも終わってはいない、おそらく連綿と続いていくであろう、とあるひとつのぼくの人生。

 

たまに考えるのだ。時間は、時間という語をぼくたちが使用するから存在しているわけで、時間そのものなんてどこにも存在しない。世界がぼくと共に変化している、ただそれだけで。

ぼくの思うぼくのはじまり、社会の規定するぼくのはじまり、そんなものは所詮ぼく自身や社会自身の内にしか存在しないのだ。

 

 

 

落ちた葉を踏みにじる感覚と、すべてを剥ぎ取るような冷たさが、ぼくに秋を知らせる。

 

愛するものへの懺悔


ただひたすらに、全てのものが懐かしいと思う。

時は存在しなくて、ぼくらの内にはただただ感情や自己の変化のみが存在している。だからこれは普段ないような感情の―自己のものの感じ方の―変化なのだろう。
もう取り戻せない愛おしさ。決別した相手と「楽しかったね」と笑いあうことはきっともう二度とできないことの愛おしさ。「ごめんね」と言って仲直りができたらいい、できなくてもいい、それはきっとどちらもかけがえのないことだから。

論理が好きだったよ。様々な人を傷つけてでも正論を振りかざし「ぼく」を護った。論理を根拠に、思考の正当性を主張した。何故ならその頃のぼく自身の正当性は、その論理の整合性にあったからだ。

今はもう、人間に正当性が必要だという観念は消えている。でも、その頃のぼくだって、本当は知っていたんだ。その方法、根拠こそが間違っているということを。

だから、ぼくは必死にぼくの正当性を壊してくれと願った。魔法さえ解ければ、その魔法の正体がよく見えると思っていたんだろう。それはたぶん間違いじゃあなかった、でもぼくは論理の正当性にこそ自身を委ねている訳で、その論理を壊されるのは殆どアイデンティティ崩壊の危機と言ってもいいくらいの恐怖を伴う。だから死に物狂いで、本当に必死に武装して、間違っている者には容赦なく間違っていると放ったんだ。強迫観念に背中を押されてね。そんな姿を滑稽だと思ったぼくは、理由なんてものは適当にでっちあげて助けを求めた。暴走するぼくを誰かに止めてほしかったんだよ。ぼくが誰かをどうしようもなく傷つけてしまう前に、一片の狂いもない正論でぼくの論理をぐちゃぐちゃにしてほしかった。目を覚ませと殴られるような優しさが欲しかったんだ。

あの頃、ぼくに挑んでくれた人が何人かいた。きっと彼らはみんなとても優しくて、優しすぎて、無意識下でひとの心をよく理解してしまうような人間だったのだろうなと思う。
きっと、認知してる分では純粋に疑問を持って質問をぶつけたのだろう。救いたいなんてこれっぽっちも意識にはなかっただろう。たとえば彼らが今これを読んだとしても、そんなことはないと言うかもしれない。だから無意識下について語ることはほんとうに無意味だ。正解なんてわかりはしない。きっと存在すらしない。だからぼくは勝手に定義するよ、なぜなら君たちにごめんねとありがとうを言いたいから。

正論という武器で固めて、正論という名の武器で刺し続けた。
それがたとえ自己防衛であったとしても、ぼくは本当に申し訳ないと思う。自分が刺されればいいのだと思う。彼女は別れる時の挨拶でさえも、礼儀正しく「正論」という土俵の上で行ってくれた。そうして棄権をした。
その正論という兵器を甘んじて受けたのは、議論に参加した相手の方だ。強制してもいないのに勝手にフォローして傷付いたのは、相手の方だ。それはおそらく確かに正論ではあるのだ。
ただぼくがそれを自分の考えとして許さないだけで。


彼女がここを見ているかわからない。だから言い逃げをする。
きみのその優しさがだいすきだった。
なのにそれを踏みにじって、幾度も刺した。あの発言は殆ど故意だ。
きみがぼくのことをそう思わないとしても、ぼくはぼくのことを最低だと思う。
踏みにじったのも惨たらしく刺し続けたのも事実だ。ただ、その表情は涙でぐちゃぐちゃだったってことも事実なんだ。
赦されなくてもいい、ただきみに心からのごめんなさいとありがとうが伝わればいい。
エゴを放ることしかぼくにはできないから、ならばせめて愛の形で。



嫌になるくらい不器用なぼくだ。
何も言わなければいいのに、こうして言ってしまう脆弱なぼくだ。



正しさの踏み躙られ方

ぼくにとって、たとえばある日突然母親が息絶えてしまうことの理不尽さと、社会において正しさという概念が通用しないことの理不尽さは、全く同等である。
程度問題というのはその大抵が個人の価値観に依存するものだと思うし、そこに折り合いこそあれど絶対的な正解は存在しないだろう。また、感情的なことは理不尽さとは別の領域だ。感情的なことの理由に理不尽さが存在することはあっても、理不尽さの理由に感情的なことがあってはいけない。これは、どちらが上位だとか下位だとかの問題ではない。性質の問題だと言いたい。

なぜ、大抵の場合において、前者の方が後者より「重大な出来事」だとされるのか。人間だからか。ではなぜ、人間であれば、それが重大とされるのか。あるいはなぜ、後者は重大でないのか。
そういう生き物だからという説明はほとんど説明の機能を果たしていない。なにか現象のトートロジーで事を済まそうとしているような性質さえ感じる。
ああ、愚かでひどく愛おしい知的生命体だ。

1000年後も人類が存在していたなら、きっとぼくらのことを野蛮だと思うだろう。完璧であれない限り、こんなことは結局相対的なものでしかないのだから。

伝える意図のない説明だ。
そしてまた、大抵の場合において、通用することのないであろう駄論だ。
そのことをぼくはようく知っているのだ。


(2016.08.16)

ぼくの未熟さについて

ぼくは至ってまだまだ未熟なのだ、と思う。湧き上がる怒りも、理不尽に対する正論の言葉も、ぼくが未熟だからこそ考えて、また感じてしまうのだと。そう考えた時、ぼくはどうしようもなく悲しくなる。怒りを感じるぼくに悲しみを憶える。
だって、その姿は本当に可哀想だ。

前より苦しみを感じなくなった。受け容れられる物事が格段に増えた。穏やかになった。物わかりがよくなった。自己と他人を分化して考えられるようになった。「そうかい」と言えるようになった。「じゃあ、仕方がないな」と言えるようになった。それらはほんとうに良いことだと、ぼくは思っている。
そして昔の苦しんでいた僕に少しの未練と郷愁と愛おしさと寂しさを憶えて再び「仕方がないな」と呟くんだ。

それでも時々泣き崩れそうになってしまうのは、やり場がなくてどうしようもないような肥大した正義感、また現実の社会に通用しないような正論を携えて呆然と立ち尽くす僕が、ひどく哀れで仕方がないからだ。きっとぼくはまだまだなにも分かりきってはいなくて、正論にしがみついているのだろうと思う。だって今のその哀れみには、感情移入も混じってしまっているのだから。
君の言うことは正しいよ。常識は決して普通などでは在り得なくて、論理のみがただひとつ普通で在り得る、君の文法ではそうなのだとぼくにはわかってる。言いたいことは痛いくらいによくわかるよ。だってぼくだってそう思ってしまうから。でも、ぼくたちの生きる世界は、そんなに易しくできていない。

正しさ、正義、普通、もしかしたらとある文法では真理と形容するかもしれないようななにか、その姿を追い求めてぼくは哲学へ辿り着いた。
人間の間での言語使用について。
すべてのヒトに共通するなにか。
ぼくらの原動力。

答えは未だに見つからなくて、この探し方が正しいのかすら解らない。けど、解らなくても止められないのがきっと「ぼく」という人間なのだろうと思う。