楽ということの毒性。特殊であることの悪性。

ぼくが満足に生きる上で必要としているのが「絶えず考え続ける」ということで、だからきっと正しさを求めているわけじゃない。正しさに頼ることは簡単で労力が要らない、すごく楽なことであって、とても魅力的ではあるけど、それを続けていたらぼくは息ができずに死んでしまうということを知っている。

大きな広い道を歩いていてそこがどこに通じているかということは問題にならない。ただ今現在自明であることの上を楽々と歩み続けることが苦痛なだけだ。何も考えないということがぼくにとっての毒となり、絶えず考えるということがぼくにとっての生となる。
意識の楽はイコール意識の快適さにならない。細かな切り傷を作りながら常に道を開拓してゆかなければ、ぼくの意識は「楽だ」という事実に基づいて窒息して死ぬ。

そのことをぼくははやく身体レベルで理解しなければならない。
単純にゲームをしたり映像作品を観たり本を読んだり喋ったりすることではぼくは息苦しいのだということを、早く知らねばならない。そこに何か考える余地のあるもの、既存の理論では語れないなにか、ぼくの新しい領域を開拓する、世界にひびを入れる感覚、それらを持つものが散らばっていることが必要なのだと。ぼくに存在する、意識を受ける感覚器の鋭敏さが鈍り、半分くらい死んだような気分になるのは、お前が他人の生き方を模倣しているからなのだと。

ぼくはいつだって世界を想像でしのいできたよ。ある時期にはぼくには想像上の友達が居たし、その存在について考えたりした。物語の主人公だったこともあるし、自分の意識を虐殺して沈黙を保つ世界で唯一の天才であったりもした。見た目が普通であれればね、どんな世界を展開させたって構わない。そういうことをぼくはもう小さい頃に学んでいたよ。身体と社会的地位が中学二年生になる遥か以前から、ぼくは中学二年生の思考をしていたし、理論だっていわば想像の範疇なんだから、今だってその残滓は感じ取れるよ。

「特別」であってはいけないのか、「独特」であってはいけないのか、ぼくはもうなにがおかしくてなにがおかしくないのかわからない。みんなが独特だとぼくは思っているし、だってそうでなければたぶんぼくは誰が誰だか区別することができない。特別という語の使い方が難しい。程度問題、でもその程度問題を適用する対象が少し間違ってはいないか。厨二という言葉が生まれたのは、なぜだろうか。

ぼくは自分のことをとても特殊だと思っていて、それは周りとの違いの程度が大きいということで、つまり主観的な違和感が強いということになる。これはたぶん誰に測れることでもないし、特殊だから何、と他の誰かが切り捨ててしまえる案件でもないし、特殊なんてないよと言えるようなものでもない。主観的な違和感は存在して、ぼくはそのことによって折り合いの付け方や生き方を模索せざるを得ない。

独特であるということを不思議に思うことの特殊感。矛盾しているような気がする。みんなが独特であるから特定の一人を指して「独特」と表現するのはオカシイ、という理論。
ああ違うか、客観的な独特と主観的な独特は少し意味合いが変わってくるのかな。というよりは主観的な独特はむしろ疎外感と言い換えたほうが適切なのかもしれない。
いや、それともこれはぼくの強引な理論付けになるのか。考察するのは面白そうだけど、ちょっと思考の枝分かれが増えてきてパンクしそうだからまた今度にしよう。
ぼくが言いたいのはただ「自分が特別で特殊だと思ってなにが悪い」ということなんだ。


お願い、誰かぼくに面白い話を頂戴よ。

ぼくの恋愛観について。

ぼくの恋愛観について。

ぼくは言ってしまうなら恋人はいらないと思っているし、ひとりで世界を楽しむことができるならそれでいいと思っている。たとえば誰かと一緒に生きたらそれはそれで2倍、3倍の楽しさがあるだろう、でもぼくは人と親密に、長く付き合っていくことがとても苦手なんだ。ぼくの感性や価値観を理解して受け容れてくれるひとはごくわずかだし、そもそもぼく自身が基本的に他人に我慢ならない。
そして「友人」「親友」までならぼくは大抵どんな人とも付き合うことができる、でも「恋人」になると、その範囲がほんとうにほんとうに狭くなって、ごくごく一部、ほんとうにほんの一握り、一つまみだけ、ということになる。

それが何故なのか考えてみたけれど、どうやらぼくは「恋人」を「他人という括りの中で唯一、自分の世界に直接的に関与してくる人」だと思っているみたいだった。「友人」や「親友」ならぼくはとてもうまく客観視ができる。ぼくの物語に踏み込んでこない、ぼくの生活に踏み込んでこない、でも一緒にいると楽しい「他人」。

前々から話しているけれど、ぼくは自分の世界を、どこか目の前で上映されるエンターテイメントだと思っているようなふしがあって、たとえばこの上映されている映画のなかでどんな衝撃的な出来事があっても、たぶん本当の意味で崩れて壊れてしまうことはないんだろうと思う。実生活ではかんたんに笑うし驚くし泣いてしまうんだ、それが嘘なわけではないんだけれど、そうやって笑ったり泣いたりしながら、ぼくの中では第三者の目で現実を見ているもうひとつの瞳が存在する。それが少し怖くもあって、でも、たぶんこれでぼくが崩れてしまうことはない、と少し安心している。そういう感覚は、道徳的に考えればあまりよくない方に属するのだと思う。目の前でたとえ何が起こったとしても、ぼくは自分の根っこから動じることはない。というか、たぶんできない。それを世間では「冷徹」と呼ぶのだと知っている。

でも、これは「揺らがないこと」と言い換えることができると思うけど、揺らがないことは本当に悪いことなのか。「人間らしい」と言って感情を発露させることが推奨されることの必要性はなんなのか。ぼくたちは社会に生きていて、社会で生きなければならないすがたをしているけれど、その社会のすがたが正しいという根拠なんてない。巷で使われている「本能」なんて言葉の根拠だってあまりにも脆い。ぼくは誰の目を見たってはっきりと言えるよ、正しさなんて誰も強制はできない、ただ自分で創っていくだけだ。ぼくらは自分の経験を重ねて、その中から大切なものを取り出して少しずつ少しずつ積み上げていく。そうして積みあがったものがぼくらの正しさであり、ものさしであり、言語である。社会に蔓延している「正しさ」は、「価値観の大衆性」と言い換えることができる。

というわけで、ぼくの世界は「世界」に対して閉じている。ただぼくは「恋人」というものを、一緒になにかを創っていくもの、また、それ故に唯一ぼく自身、ぼくの世界に入ってこれるもの、と思っているらしかった。だから、「恋人」には開かれているのだ。基本的には。

ぼくは「恋人」として付き合える人の範囲が極端に狭いという話をした。それは、ぼく自身が「自分も相手も、お互いに刺激になれるような人」でないとぼくの世界を開くことができない、と思っていることから来ている。有り体に言ってしまえば、ぼくが尊敬できるような人、ぼくの価値観というものさしで見たときに、どこかの分野ではぼくよりも優れていると思えるような人でないと、ぼくは付き合えない。そうでない人だと、自分を開示することへのひどい抵抗と苛立ち、また失望と悲しさを感じる。そして、そういう人かどうかは、実際にぼくの世界を開示しようとしてみないとわからないのだ。「友人」があまりにもぼくの世界から遠すぎるがゆえに。


たとえば誰かが「それはどうなの」と言ったら、ぼくは「これがぼくの世界のスタンダードだ」と言える。人間はいつだって、うっかりしたらすぐに死んでしまうような「脆さ」という影を自分の中に飼っているのに、そのくせ簡単なことでは死にやしないんだ。ぼくがいくらいろいろなところに飛び込んでいったって、常識から外れた行動をしたって、大衆的でない生き方をしたって価値観を持ったって、ぼくは今まで生きてきたし、むしろ死のうと思っても死ねなかった。そんな理不尽さが少しむかつくけど、いまは感謝することもできる。
二十年とすこし生きてきた今だって、未だに呆然と立ち尽くしているし、少しのスキルだってマスターしていない。生まれたときとなにが違うんだってくらいに無知で、どこに行きたいかもわからないまま手探りでそろそろと歩いている。世界のなにを知れるって、ぼくなんかが何かをきちんと知れるわけがなくて、それでもぼくは何かを知りたいし、少しでも物の名前がわかるようになりたい。ぼくが何を好きなのか知りたいし、世界がなにを考えているのか、ほんのちょっとでも考えてみることができる方法が欲しい。だからぼくは知らない言語を練習するし、新しい語彙を探すし、様々なところに出かける。ことばでぼくの世界を整理する。日本語にしか表せないものがあり、英語にしか表せないものがある。

ぼくらはいつだって自分のことを赤子だって思っていいんだと思う。
いつだって、何をやってみたっていいんだと思う。





きっと、そうやってぼくらは自分の世界を創っている。




光る双眸

ぼくが夢見ていたあの星には、
もう永遠に手が届かないのかしら
当然のような顔をして薄氷の上を歩く
真っ直ぐ前を見つめて
力強く足下を踏みしめる
氷が割れることはない
その裏にあるものを、
ぼくは見て見ぬふりで殺している
きちんと息ができなくなるように
ていねいに殺さなきゃならない
もう二度と息を吹き返さないように
きちんと最後まで殺さなきゃならない
だって、それは呪いだから

ぼくの見てた星は、
たぶん誰にも見ることが出来ない
たとえば誰かが
それは童話だと笑うかもしれない
それならぼくはそうだよと笑うよ
だってもしかしたら、
そんな星はぼくの想像でしかなかった
ありもしない、
美しい幻の星。
あそこを目指して進んでいけば、
いつか君は苦しむことがなくなると
たくさんの仲間ができると
言ったのは誰で
信じたのは、
果たして誰だったか


掃いては捨てるほど溢れている人間
飽和する価値観
それを真っ白に染めてしまったら、
ねえ
世界はようやく面白くなるだろうか
ぼくが口の端を持ち上げられる程度には
不思議な様相になってくれるかな

あのね、
隠喩を剥いだあとの肉塊を
ぼくは愛することができるだろうか

愛せなくなるのが怖いのだと
青ざめた顔をするぼくの横顔は
彼が愛する人間達に、少しだけ似ていた

明くる日

 

吐く息がしろく染まっても
それは世界が一周したことの理由にならない
地平線の向こうが見たかった
ぼくの思う、理想の向こうを見たかった

 

ごとり、と音を立てて
ぼくの頭蓋は朝焼けを見る
崩壊した世界を映すその眼は
捉えきれない黒だった
その内側に詰まる胎児の記憶を
彼はきっといつまでも大切にする
そうやって、

いつまでも海に行こうとする
埋め合わせをしようとして、
真黒に染まった手を
きれいな星空に翳して
彼は、
いつだって朝焼けしか見ることが出来ない
堕ちたって誰にもなれない

 

行き続ける時が、
ほんの気まぐれでかつてを目指す
その先にあるのは
愛おしいぼくらの亡骸
太陽が死んだその欠片
すべてを知りたい双眸が
地平線の向こうで微かに笑うのを
君は確かに
この目で見たんだ

 

生の意義

内省できる言葉を持っていない、ぼくはいつからか無くしてしまった。しばらくブログに触っていなかったのは、まさにそうだったから。

でも、だからこそ無理矢理にでも言葉を吐き出すことにしたのだ。そうしないとぼくは死んでしまうような気さえしたから。

それがぼくに科せられた生きる上での枷のような気すらするから。

 

美しいものを見たい。

ぼくの願いはただそれに尽きる。

 

ぼくの日常は、その殆どすべてが余興、エンターテイメントに過ぎない。それ以上でも、以下でもない。なぜだろう、きっと、自分の身に起きたことすらもそうなのだ。他人を反響板にして、まったく大変だと言った風情でひとつの物語を語って、ただそれを楽しんでいる。

もしかしたらどうでもいいのかもしれないね、現世で起きるそのすべてが、もしかしたらどうでもいいのかもしれない。ぼくはいつ死んでしまってもそうなってしまったならそれでいいと思う、それは死にたいということでは全然なくて、生を重要なものとして捉えていないと、きっとそういうことなんだろうと思う。生きても、生きなくても、どちらでもいい。今は生きていて楽しいから死を選びはしないかな、みたいな。死ぬことのリスクは計り知れないくらい大きい、でも断じて選ばないという程ではない。ぼくの頭で考えて、現在にも未来にも楽しみやなにかが見つからなければきっと簡単に死んでしまうだろう。

だから、たぶん全ては面白半分なのだ。今でもぼくは、社会に生きる人間としての「ぼく」を演じ続けている。それを辞めたら、ぼくは社会の仕組みの内側で息ができずに早々に死んでしまうだろう。マトモに考えたら動けないような社会だ、言葉を発するための一呼吸すらできないような社会だ、ぼくにとっては。

生を重要なものとして捉えられない、ゆえにその生の上で起こることも、なにか重要なこととしては捉えられないのだ。だって意味すらも人間が作り出した観念でしかない、たとえばその意義だって人間によって違うけど(一般的に価値観と呼ばれるものによると思う)、ぼくにとっての意義は生という土台の上に乗った時に初めて価値を持つ。だから、生という土台を価値として認められなければぼくはいつまでもその上のなにかに価値を見出すことはできない。

 

だから、ただ、美しいものを見たい。

モノレールから見下ろす景色や冬の夜の澄んだ星空、愛おしく輝く存在がただ見たい。

ぼくが美しいと言おうが言うまいがなにも関係なくただそこに存在する美しさが見たい、残酷なまでのどうしようもなさ、ぼくがなにをどうしたってなにも変わらないような姿が泣きそうなくらいに美しいと思う。だからきっと星空も空気の冷たさもなにかの死も美しいと思うんだと思う。

もしかしたらその美しさだって余興かな、でもいいんだ、ぼくがいなくなったその後も、生という土台それすらも無くなってしまったその後も、それらは変わらず存在していて、いつか無惨に消えてしまうのだろうから。

 

もしかしたらどうしようもなさを愛しているのかもしれないね、どうにでもできるぼく自身の生の内側で、いつまでも変わらずにぼくが否応なく美しいと嘆息してしまうその姿を、ぼくは、愛しているのかもしれない。

 

ぼくはもう少しちゃんと「ぼく」として生きていきたいと思う、でも人間は社会で生きていかなくてはならなくて、そっちの方が余程労力が少なくて済んで、ぼくはそっちを選んだ。

いまの姿も嫌いじゃない、でも時々自分自身に戻らないと呼吸ができなくなってしまう。

 

それでもどうやったってなにをされたって、きっとぼくは人が好きなんだろう。

そう、きっとぼくは、人が好きなんだろう。

 

 

 

 

構造か、果たして様相か

その全てが自らの自己責任であり、一種の自傷であるのだと、ぼくは本当は知っていた。自分を罰さねば生きてゆけないなんてきれいな言葉で収まってしまえればいいのにね、そうしたら、ぼくなんてそれに満足してあっという間に終わってしまう。

そうして物語は終結する。

 

ぼくは時々、ぼくの世界を勝手に滅ぼしてしまうんだ。

たとえば今、背後から刃物で一息に刺されてしまったら。

たとえば今、宇宙からのなにかの飛来により、地球上の水分や酸素が一気になくなってしまったら。

たとえば今、どこかで秘密裏に打ち上げられた核爆弾がこのあたりに落ちたとしたら。

たとえば、今、現実を認識する暇もなく、斧で首を切り落とされてしまった、なら。

世界は終わるだろう。そして、とあるひとつの世界は終わったのだ。ぼくの想像によりとあるひとつの世界は、その物語の終焉を迎えた。

この目の前の世界は別のものだ。終わる可能性をいつでもいつまでも秘めていて、それでも終わってはいない、おそらく連綿と続いていくであろう、とあるひとつのぼくの人生。

 

たまに考えるのだ。時間は、時間という語をぼくたちが使用するから存在しているわけで、時間そのものなんてどこにも存在しない。世界がぼくと共に変化している、ただそれだけで。

ぼくの思うぼくのはじまり、社会の規定するぼくのはじまり、そんなものは所詮ぼく自身や社会自身の内にしか存在しないのだ。

 

 

 

落ちた葉を踏みにじる感覚と、すべてを剥ぎ取るような冷たさが、ぼくに秋を知らせる。

 

愛するものへの懺悔


ただひたすらに、全てのものが懐かしいと思う。

時は存在しなくて、ぼくらの内にはただただ感情や自己の変化のみが存在している。だからこれは普段ないような感情の―自己のものの感じ方の―変化なのだろう。
もう取り戻せない愛おしさ。決別した相手と「楽しかったね」と笑いあうことはきっともう二度とできないことの愛おしさ。「ごめんね」と言って仲直りができたらいい、できなくてもいい、それはきっとどちらもかけがえのないことだから。

論理が好きだったよ。様々な人を傷つけてでも正論を振りかざし「ぼく」を護った。論理を根拠に、思考の正当性を主張した。何故ならその頃のぼく自身の正当性は、その論理の整合性にあったからだ。

今はもう、人間に正当性が必要だという観念は消えている。でも、その頃のぼくだって、本当は知っていたんだ。その方法、根拠こそが間違っているということを。

だから、ぼくは必死にぼくの正当性を壊してくれと願った。魔法さえ解ければ、その魔法の正体がよく見えると思っていたんだろう。それはたぶん間違いじゃあなかった、でもぼくは論理の正当性にこそ自身を委ねている訳で、その論理を壊されるのは殆どアイデンティティ崩壊の危機と言ってもいいくらいの恐怖を伴う。だから死に物狂いで、本当に必死に武装して、間違っている者には容赦なく間違っていると放ったんだ。強迫観念に背中を押されてね。そんな姿を滑稽だと思ったぼくは、理由なんてものは適当にでっちあげて助けを求めた。暴走するぼくを誰かに止めてほしかったんだよ。ぼくが誰かをどうしようもなく傷つけてしまう前に、一片の狂いもない正論でぼくの論理をぐちゃぐちゃにしてほしかった。目を覚ませと殴られるような優しさが欲しかったんだ。

あの頃、ぼくに挑んでくれた人が何人かいた。きっと彼らはみんなとても優しくて、優しすぎて、無意識下でひとの心をよく理解してしまうような人間だったのだろうなと思う。
きっと、認知してる分では純粋に疑問を持って質問をぶつけたのだろう。救いたいなんてこれっぽっちも意識にはなかっただろう。たとえば彼らが今これを読んだとしても、そんなことはないと言うかもしれない。だから無意識下について語ることはほんとうに無意味だ。正解なんてわかりはしない。きっと存在すらしない。だからぼくは勝手に定義するよ、なぜなら君たちにごめんねとありがとうを言いたいから。

正論という武器で固めて、正論という名の武器で刺し続けた。
それがたとえ自己防衛であったとしても、ぼくは本当に申し訳ないと思う。自分が刺されればいいのだと思う。彼女は別れる時の挨拶でさえも、礼儀正しく「正論」という土俵の上で行ってくれた。そうして棄権をした。
その正論という兵器を甘んじて受けたのは、議論に参加した相手の方だ。強制してもいないのに勝手にフォローして傷付いたのは、相手の方だ。それはおそらく確かに正論ではあるのだ。
ただぼくがそれを自分の考えとして許さないだけで。


彼女がここを見ているかわからない。だから言い逃げをする。
きみのその優しさがだいすきだった。
なのにそれを踏みにじって、幾度も刺した。あの発言は殆ど故意だ。
きみがぼくのことをそう思わないとしても、ぼくはぼくのことを最低だと思う。
踏みにじったのも惨たらしく刺し続けたのも事実だ。ただ、その表情は涙でぐちゃぐちゃだったってことも事実なんだ。
赦されなくてもいい、ただきみに心からのごめんなさいとありがとうが伝わればいい。
エゴを放ることしかぼくにはできないから、ならばせめて愛の形で。



嫌になるくらい不器用なぼくだ。
何も言わなければいいのに、こうして言ってしまう脆弱なぼくだ。