羊の一鳴きで心臓がゆるやかに止まってしまえばいい

溜まりゆく走り書きをここでまとめても良いのかもしれないと思い始めている。Twitterの方は完全に観覧用にしてもいいな。というかそれに気が付くのがえらく遅すぎるのではないかという気もするが、まあ気長に考えよう。
お昼寝を1時間摂取したために夜中眠れないという事態が起こっている様子なので、ぼくはスマートフォンからブログを書きます。
2016年5月5日午前2時11分、布団の中からスマホでブログを書く。わお、人生初の試み。

最近思ったわけだが、その人が気が付かないということには意味があるのだと思う。
ぼくの考えを提示して、たとえばそれを彼らが正しいと思い解決策を練ったり実行したりしたとしても、おそらくそれは彼らの手には負えない事態、案件であるのだろう。
感情優位の人に論理思考優位の人がその人なりのアドバイスをするが、感情優位の人がそれを上手く遂行出来ずにさらにフラストレーションを溜めてしまうような、そしてまたその逆も然りであるような、それはたぶん、知らない方が幸せという類のものだ。
ぼくは身近な彼らを見て、ひどく納得したのだった。

ぼくもみんなと同じように他人からの評価や関係、もしくはそれを得るための努力、日本の経済や情勢やそれらに対する他人のスタンス、阿呆極まりない人たちへの見解で一喜一憂したい。
だから、そういったことで苦しむことができるという点で昔のぼくは幸せそうだと思う。しかし、人間的に苦しみたいと思うのがぼくならば、また超越的でありたいと思うのもぼくなのだ。素敵じゃないか?
この文句が盛大な皮肉に聞こえるだろうことを知っているし、またその解釈さえもひとつの真実であるのだろうとも思う。

ふむ。ぼくが思うにおそらく、世界はあまりに賢すぎるが故に知恵を亡くしたのだ。