ぼくは彼だと言ったときにそれは間違いであるか?

「あなた自身はもう滅んでしまっているのだろうか」
死にゆく彼女の手は紅に染まっており
ほのかに温もっていた

きっとぼくらみんな犯罪者だ
心臓の鼓動を偽って
操り人形のふりをしているのだ
そうしてそのまま朽ちてゆくも
脈動に想いを馳せて死んでゆくも
いずれにせよぼくたちにとってはそれが真実なのだ
そしてもちろん、
ぼくたちは健全な人間であるという見解も
また真実であるのだ


いつだってどこでだって
ぼくらは祭りを催してよいのだ
生を祀り
そして笑うのだ
そうしてぼくは
すべてを肯定する
世界が世界であってしまい、
それをぼくがまた世界だと思っているが故に
ぼくはそれを慈しみ
笑い飛ばす
虚無でさえも
無意味という存在も
そんなものがあることそのもの
およそそのすべて、を
愛して、嗤ってしまえばよいのだ

静かな時、過去を目指す空間、ぼくの吐く息
すべてが嗤ってしまいそうなくらい愛おしくて仕方がない
傍らに佇む彼女たちを
ぼくはジョークでもって撫ぜるのだ

彼女たちは一度死んだ
そうして今、ここに存在する。

(橘優佳)


ぼくの視点は主観であり同時に第三者の視点でもある、みたいなことを考えていたのだけれどどうやって何が言いたかったんだっけな。いつものようにメモをしなかったので忘れてしまった。

頽れたぼくの姿を、ぼくは幾度も見下ろしたことがある。気紛れに彼の世界を掬ってみたことも。正解は存在しない、何をしたってぼくは「それもまた真実である」という一言で失ってしまう。そして世界を掬った彼をぼくは見上げる。その世界の内から、揺れる大陸と巨大ななにかを認識しながら、掬った世界を慈しみ、奏でるのだろう。揺らされたぼくは緩やかに眠りに就く。世界のすべてはそれでも閉じられることはない。
その閉じた瞳の奥から放たれる言葉。「彼もかつてはぼくであった」「ぼくもかつてはきみであった。」抱擁を交わすぼくらは誰でもない、ゆえに何人でもある。
さあ、笑い給え。

皆様ご承知おきの通り、ぼくは少し前からニーチェに惚れ込んでいる。最近立て続けに「ツァラトゥストラ」と「この人を見よ」を買ってしまった。きっかけは大学の先生と話したことだった。数少ない哲学系の授業を取って、そもそもいちばん最初、ぼくは彼に惚れ込んだのだと言うのが正しいだろうか。自分より頭の良い大人に、ぼくは初めて出会ったと思った。そうしてぼくは彼の著作に宿るニーチェという思想、もしくはニーチェという思想が胚胎した彼の著作に囚われ、世界からの脱出を果たしたのであった。


それはそれであり、またそれはあれでもある。そういうことだと思う。