解釈が積み上がること、そしてその愉悦

新しいことを知るのは面白い。たとえばそれが生を惜しむ理由にならないとしても。

いろいろな本を読み、いろいろな人の話や講義を聞く。そうするとぼくの中に、その話す当人の視点や思考法、つまりその人なりの世界の解釈を仕舞ったひとつの抽斗ができる。そして然るべき時にはその中を覗いてみるのだ。そうするとその技術、解釈法を適用して、意味の転換や理解がより巧妙にできるようになる。

そうして自分の中に他の解釈、視点が積み上がってゆくこと、それこそがぼくにとってはほんとうに愉しい。
ああ自分はまだこんなに馬鹿であった、知らぬことも世の中にはごまんとあるのだ、そうして新しい世界を知る。それがどうして快いことでないことがあるか。

講義の方がうまく吸収できる、という感覚がある。たぶん、当事者的役割の濃さの問題だと思う。
没入感に差が出るのだろう。相手と言葉を交わすよりは、講義を聞いている方がより仔細に観察できる。余白の問題、距離の問題だ。



どうも、韜晦的なぼくは伝わるように説明するのを嫌う節があるらしい。すべてが明瞭に理解できるような細やかな文章を書く気になれない。何故だろう。