たとえば、神は何故、自殺をしないのか。

ぼくだったらもうとうの昔に死んでいる、自分が全知全能であると悟ったその日から三日後くらいには、きっと、もう、世界とともに死を選んでいる。神は何故、自殺をしないのか。

知っている。彼らの言う"神"はそんなにちゃちなものではないということを。人類の幸福を担保する彼は、おそらくそれ故に幸福であらねばならない。だからきっと、苦悩などというものを知らず、自らの命を、生を終わらせるなどという選択肢も存在し得ないのだと。
神という言説が存在する。神は無限で居られるし、たとえば毒ニンジンの杯を仰いで死ぬこともできる。そうすると、毒を飲んで死んだ神が再び生まれる。しかしその瞬間においては、つまりぼくが「そうすると……生まれる」の箇所を記述した瞬間においては、毒ニンジンの杯を仰いだ神しか存在しない。毒を飲むことを選んだ神は、その瞬間、無限に生存する神では居られない。しかし、今、無限に存在する神はこうして書かれる。存在する。

ぼくは自分の世界ですら自分で担保できない。
ぼくが彼を嫌悪すれば、ぼくの世界には悪を備えた彼しか存在できない。ぼくが神に毒を飲ませたならば、ぼくの世界において、神は生きて無限であることはできない。
そうして何かを規定してしまうことが、ぼくにはとても痛い。自分の世界を認識できるように枠を決めること、つまり理性を持った人間であるということが、ぼくの苦悩として存在している。ぼくのみがぼくの世界の支配者であることに耐えられない。ぼくの世界に対して全知全能であることへの絶望感だ。ぼくは、きっとそれをきちんと統治できるほどの技量を持ち合わせてはいない。そして、すべてが思った通りになるということ、すなわちぼくが全くの自由であること、それはある意味ではあらゆる可能性の消失なのだ。耐えられるわけがない、と言いながらぼくはこの先もきっと息をしてる。

訴えかけられるすべてに対して納得したくない。そしてまたすべてに対して、深く納得し受容したい。なんにでもなれる可能性を説いて、可能性などは存在しないということを教えたい。
たぶん、それは、「非他なるもの」に少し似ている。




「ぼくの生は絶えざる克己である」
「そして、その言説はすべて寓話である」