ある午後におけるぼくの中身

ぼくはメタ認知が得意だ。いや、精確に言うならば、メタ認知が得意だというよりはそれでしか物事を捉え考えていないということになろうが。

ぼくはどこまでもメタ認知によって問題の外側へ外側へと歩み続け、その結果として終には主観の外側へ辿りついてしまったのだ。もちろんその外側とはあくまで主観の内側に存在する外側でしかないのだけれど、ぼくはそこを外側だと認識することによって、あっという間に主観としての瞳を失ってしまった。

論理は、価値は、そもそも世界のすべては、人間が生み出したものだ。ということを認知した。認知したということは存在するということだ。事実として、その論理と人間との関係は存在するのだろう。
しかし、それでも、価値を創ったのは人間だ、というその先――その外側――にぼくは行けない。なぜなら、ぼく自身が人間であるからだ。
感覚として、ぼくが人間であるということから離れて俯瞰して見ているその景色は根本的に間違っている。その「根本」がそもそも存在するのかどうかさえも。何故ならそれはぼくという「人間」が見ているものだからだ。価値と人間の関係を認知している、認知しているがそれは人間の側から認知しているのだ。仕組みの幾許かも解き明かされぬままの、その人間の側から。
たとえば言葉で言葉そのものを語り得ないように、たとえば論理を使う以上はそれ故に論理そのものを語り得ないように、反省的なものにはおそらく殆ど必ず「語り得ぬもの」が存在するのだろう。



ぼくたちは、人間でしか在り得ない。そしてまた、ぼくたちは、ぼくたち自身でしか在り得ないのだ。