泣きたいような愛の正体

ぼくは、思っているほども、思われているほども、これっぽっちだって強くはない。いつだって耐え難い悲しみや絶望や、もしくはあふれるほどの愛おしさに支配されている。ぼくの世界はいつだってその相貌を容易に変える、おそらくどうやっても完璧には表せられないような色を映す。

周りに蔓延る死に耐えられない。記憶の中で、ぼくの世界で、確かに動いて喋って笑って泣いていたものがぷつりと途絶えてもう指の先だって動かさなくなる。もう彼らが動くことはない。ぼくの知っている彼らが彼ら自身の意思を表明することはもう、永遠にない。断絶された円環を目の前にして、それでもぼくは今日を生きてる。

少しだって強くない。いのちを失った彼を目にすることもできない。追憶の中でしか悔やむことはできない。たとえばそれは薄情だろうか。
ぼくがたとえば、とよく言うのはきっと、それがなにかを限定する言葉じゃないからだ。なにも限定したくない。誰にとっても、何にとっても、すべては開かれていてほしい。すべてが行きたいところへ行ければいい。ぼくが泣いていたとしても、みんながきみは泣いてないと言えるような世界を渇望している。

なんだってほんとうじゃない。なんだって、ぼくの知覚でしかない。でもそれはなんだって本当だということと同じで、その差異がときどきぼくをひどく苦しめる。でもぼくはなんだって大好きだし愛している、苦手だと感じるひとだって、さようならを告げてしまったひとだって、ぼくが傷つけてしまったひとも、ぼくはみんなみんな泣きたいくらいに愛している。そしてすべてのものにごめんと言って泣きたいと思っている。
裏切られたって傷つけられたって殺されたって、また裏切って傷つけて殺してしまったとして、ぼくは愛おしさを捨てることがたぶんできない。その行為をどれほど罵られてそしてぼくがどれほど懺悔の念を持っていたとしても、ぼくはその罵った人の思うような償いができないかもしれない。でも耐え難いような痛みは感じている、
信じるということ。


すべてを愛している、故にすべてに絶望する。
そしてだからこそ、ぼくは愛することを止められない。
絶望と悲しみと愛はひどく似ているような気がする。



きこえていますか、
見えていますか
きみが好きです。
きみのことを何も知らなくても、
生きて存在している、そのことにぼくは涙を流す。



なにもできなくてごめん、
どうかきみがきみで在れますように


愛しています。