ぼくの未熟さについて

ぼくは至ってまだまだ未熟なのだ、と思う。湧き上がる怒りも、理不尽に対する正論の言葉も、ぼくが未熟だからこそ考えて、また感じてしまうのだと。そう考えた時、ぼくはどうしようもなく悲しくなる。怒りを感じるぼくに悲しみを憶える。
だって、その姿は本当に可哀想だ。

前より苦しみを感じなくなった。受け容れられる物事が格段に増えた。穏やかになった。物わかりがよくなった。自己と他人を分化して考えられるようになった。「そうかい」と言えるようになった。「じゃあ、仕方がないな」と言えるようになった。それらはほんとうに良いことだと、ぼくは思っている。
そして昔の苦しんでいた僕に少しの未練と郷愁と愛おしさと寂しさを憶えて再び「仕方がないな」と呟くんだ。

それでも時々泣き崩れそうになってしまうのは、やり場がなくてどうしようもないような肥大した正義感、また現実の社会に通用しないような正論を携えて呆然と立ち尽くす僕が、ひどく哀れで仕方がないからだ。きっとぼくはまだまだなにも分かりきってはいなくて、正論にしがみついているのだろうと思う。だって今のその哀れみには、感情移入も混じってしまっているのだから。
君の言うことは正しいよ。常識は決して普通などでは在り得なくて、論理のみがただひとつ普通で在り得る、君の文法ではそうなのだとぼくにはわかってる。言いたいことは痛いくらいによくわかるよ。だってぼくだってそう思ってしまうから。でも、ぼくたちの生きる世界は、そんなに易しくできていない。

正しさ、正義、普通、もしかしたらとある文法では真理と形容するかもしれないようななにか、その姿を追い求めてぼくは哲学へ辿り着いた。
人間の間での言語使用について。
すべてのヒトに共通するなにか。
ぼくらの原動力。

答えは未だに見つからなくて、この探し方が正しいのかすら解らない。けど、解らなくても止められないのがきっと「ぼく」という人間なのだろうと思う。