正しさの踏み躙られ方

ぼくにとって、たとえばある日突然母親が息絶えてしまうことの理不尽さと、社会において正しさという概念が通用しないことの理不尽さは、全く同等である。
程度問題というのはその大抵が個人の価値観に依存するものだと思うし、そこに折り合いこそあれど絶対的な正解は存在しないだろう。また、感情的なことは理不尽さとは別の領域だ。感情的なことの理由に理不尽さが存在することはあっても、理不尽さの理由に感情的なことがあってはいけない。これは、どちらが上位だとか下位だとかの問題ではない。性質の問題だと言いたい。

なぜ、大抵の場合において、前者の方が後者より「重大な出来事」だとされるのか。人間だからか。ではなぜ、人間であれば、それが重大とされるのか。あるいはなぜ、後者は重大でないのか。
そういう生き物だからという説明はほとんど説明の機能を果たしていない。なにか現象のトートロジーで事を済まそうとしているような性質さえ感じる。
ああ、愚かでひどく愛おしい知的生命体だ。

1000年後も人類が存在していたなら、きっとぼくらのことを野蛮だと思うだろう。完璧であれない限り、こんなことは結局相対的なものでしかないのだから。

伝える意図のない説明だ。
そしてまた、大抵の場合において、通用することのないであろう駄論だ。
そのことをぼくはようく知っているのだ。


(2016.08.16)