愛するものへの懺悔


ただひたすらに、全てのものが懐かしいと思う。

時は存在しなくて、ぼくらの内にはただただ感情や自己の変化のみが存在している。だからこれは普段ないような感情の―自己のものの感じ方の―変化なのだろう。
もう取り戻せない愛おしさ。決別した相手と「楽しかったね」と笑いあうことはきっともう二度とできないことの愛おしさ。「ごめんね」と言って仲直りができたらいい、できなくてもいい、それはきっとどちらもかけがえのないことだから。

論理が好きだったよ。様々な人を傷つけてでも正論を振りかざし「ぼく」を護った。論理を根拠に、思考の正当性を主張した。何故ならその頃のぼく自身の正当性は、その論理の整合性にあったからだ。

今はもう、人間に正当性が必要だという観念は消えている。でも、その頃のぼくだって、本当は知っていたんだ。その方法、根拠こそが間違っているということを。

だから、ぼくは必死にぼくの正当性を壊してくれと願った。魔法さえ解ければ、その魔法の正体がよく見えると思っていたんだろう。それはたぶん間違いじゃあなかった、でもぼくは論理の正当性にこそ自身を委ねている訳で、その論理を壊されるのは殆どアイデンティティ崩壊の危機と言ってもいいくらいの恐怖を伴う。だから死に物狂いで、本当に必死に武装して、間違っている者には容赦なく間違っていると放ったんだ。強迫観念に背中を押されてね。そんな姿を滑稽だと思ったぼくは、理由なんてものは適当にでっちあげて助けを求めた。暴走するぼくを誰かに止めてほしかったんだよ。ぼくが誰かをどうしようもなく傷つけてしまう前に、一片の狂いもない正論でぼくの論理をぐちゃぐちゃにしてほしかった。目を覚ませと殴られるような優しさが欲しかったんだ。

あの頃、ぼくに挑んでくれた人が何人かいた。きっと彼らはみんなとても優しくて、優しすぎて、無意識下でひとの心をよく理解してしまうような人間だったのだろうなと思う。
きっと、認知してる分では純粋に疑問を持って質問をぶつけたのだろう。救いたいなんてこれっぽっちも意識にはなかっただろう。たとえば彼らが今これを読んだとしても、そんなことはないと言うかもしれない。だから無意識下について語ることはほんとうに無意味だ。正解なんてわかりはしない。きっと存在すらしない。だからぼくは勝手に定義するよ、なぜなら君たちにごめんねとありがとうを言いたいから。

正論という武器で固めて、正論という名の武器で刺し続けた。
それがたとえ自己防衛であったとしても、ぼくは本当に申し訳ないと思う。自分が刺されればいいのだと思う。彼女は別れる時の挨拶でさえも、礼儀正しく「正論」という土俵の上で行ってくれた。そうして棄権をした。
その正論という兵器を甘んじて受けたのは、議論に参加した相手の方だ。強制してもいないのに勝手にフォローして傷付いたのは、相手の方だ。それはおそらく確かに正論ではあるのだ。
ただぼくがそれを自分の考えとして許さないだけで。


彼女がここを見ているかわからない。だから言い逃げをする。
きみのその優しさがだいすきだった。
なのにそれを踏みにじって、幾度も刺した。あの発言は殆ど故意だ。
きみがぼくのことをそう思わないとしても、ぼくはぼくのことを最低だと思う。
踏みにじったのも惨たらしく刺し続けたのも事実だ。ただ、その表情は涙でぐちゃぐちゃだったってことも事実なんだ。
赦されなくてもいい、ただきみに心からのごめんなさいとありがとうが伝わればいい。
エゴを放ることしかぼくにはできないから、ならばせめて愛の形で。



嫌になるくらい不器用なぼくだ。
何も言わなければいいのに、こうして言ってしまう脆弱なぼくだ。