構造か、果たして様相か

その全てが自らの自己責任であり、一種の自傷であるのだと、ぼくは本当は知っていた。自分を罰さねば生きてゆけないなんてきれいな言葉で収まってしまえればいいのにね、そうしたら、ぼくなんてそれに満足してあっという間に終わってしまう。

そうして物語は終結する。

 

ぼくは時々、ぼくの世界を勝手に滅ぼしてしまうんだ。

たとえば今、背後から刃物で一息に刺されてしまったら。

たとえば今、宇宙からのなにかの飛来により、地球上の水分や酸素が一気になくなってしまったら。

たとえば今、どこかで秘密裏に打ち上げられた核爆弾がこのあたりに落ちたとしたら。

たとえば、今、現実を認識する暇もなく、斧で首を切り落とされてしまった、なら。

世界は終わるだろう。そして、とあるひとつの世界は終わったのだ。ぼくの想像によりとあるひとつの世界は、その物語の終焉を迎えた。

この目の前の世界は別のものだ。終わる可能性をいつでもいつまでも秘めていて、それでも終わってはいない、おそらく連綿と続いていくであろう、とあるひとつのぼくの人生。

 

たまに考えるのだ。時間は、時間という語をぼくたちが使用するから存在しているわけで、時間そのものなんてどこにも存在しない。世界がぼくと共に変化している、ただそれだけで。

ぼくの思うぼくのはじまり、社会の規定するぼくのはじまり、そんなものは所詮ぼく自身や社会自身の内にしか存在しないのだ。

 

 

 

落ちた葉を踏みにじる感覚と、すべてを剥ぎ取るような冷たさが、ぼくに秋を知らせる。