生の意義

内省できる言葉を持っていない、ぼくはいつからか無くしてしまった。しばらくブログに触っていなかったのは、まさにそうだったから。

でも、だからこそ無理矢理にでも言葉を吐き出すことにしたのだ。そうしないとぼくは死んでしまうような気さえしたから。

それがぼくに科せられた生きる上での枷のような気すらするから。

 

美しいものを見たい。

ぼくの願いはただそれに尽きる。

 

ぼくの日常は、その殆どすべてが余興、エンターテイメントに過ぎない。それ以上でも、以下でもない。なぜだろう、きっと、自分の身に起きたことすらもそうなのだ。他人を反響板にして、まったく大変だと言った風情でひとつの物語を語って、ただそれを楽しんでいる。

もしかしたらどうでもいいのかもしれないね、現世で起きるそのすべてが、もしかしたらどうでもいいのかもしれない。ぼくはいつ死んでしまってもそうなってしまったならそれでいいと思う、それは死にたいということでは全然なくて、生を重要なものとして捉えていないと、きっとそういうことなんだろうと思う。生きても、生きなくても、どちらでもいい。今は生きていて楽しいから死を選びはしないかな、みたいな。死ぬことのリスクは計り知れないくらい大きい、でも断じて選ばないという程ではない。ぼくの頭で考えて、現在にも未来にも楽しみやなにかが見つからなければきっと簡単に死んでしまうだろう。

だから、たぶん全ては面白半分なのだ。今でもぼくは、社会に生きる人間としての「ぼく」を演じ続けている。それを辞めたら、ぼくは社会の仕組みの内側で息ができずに早々に死んでしまうだろう。マトモに考えたら動けないような社会だ、言葉を発するための一呼吸すらできないような社会だ、ぼくにとっては。

生を重要なものとして捉えられない、ゆえにその生の上で起こることも、なにか重要なこととしては捉えられないのだ。だって意味すらも人間が作り出した観念でしかない、たとえばその意義だって人間によって違うけど(一般的に価値観と呼ばれるものによると思う)、ぼくにとっての意義は生という土台の上に乗った時に初めて価値を持つ。だから、生という土台を価値として認められなければぼくはいつまでもその上のなにかに価値を見出すことはできない。

 

だから、ただ、美しいものを見たい。

モノレールから見下ろす景色や冬の夜の澄んだ星空、愛おしく輝く存在がただ見たい。

ぼくが美しいと言おうが言うまいがなにも関係なくただそこに存在する美しさが見たい、残酷なまでのどうしようもなさ、ぼくがなにをどうしたってなにも変わらないような姿が泣きそうなくらいに美しいと思う。だからきっと星空も空気の冷たさもなにかの死も美しいと思うんだと思う。

もしかしたらその美しさだって余興かな、でもいいんだ、ぼくがいなくなったその後も、生という土台それすらも無くなってしまったその後も、それらは変わらず存在していて、いつか無惨に消えてしまうのだろうから。

 

もしかしたらどうしようもなさを愛しているのかもしれないね、どうにでもできるぼく自身の生の内側で、いつまでも変わらずにぼくが否応なく美しいと嘆息してしまうその姿を、ぼくは、愛しているのかもしれない。

 

ぼくはもう少しちゃんと「ぼく」として生きていきたいと思う、でも人間は社会で生きていかなくてはならなくて、そっちの方が余程労力が少なくて済んで、ぼくはそっちを選んだ。

いまの姿も嫌いじゃない、でも時々自分自身に戻らないと呼吸ができなくなってしまう。

 

それでもどうやったってなにをされたって、きっとぼくは人が好きなんだろう。

そう、きっとぼくは、人が好きなんだろう。