塗布したメッキ

ぼくは自分が何かをやりたいということを知らないふりして生きてきて、それはそれで楽しかったし楽だったし幸せだったけど、言いようのない苦しさだけがただひたすらに悩みの種だった。口先だけがつらつらと滑って、「好きなことを好きなようにやればいい」とか「自分で決めたことしかない」なんて言葉で汚染した。ほんとうにぼくがやりたいようにはやれていないのだということを知らないで、ぼくは苦しみの種をいろいろなものにたとえて見做した。見做してしまえばそれで事は終わったから、ただ自分を納得させるだけならそれでよかった。
ぼくは現実の反発の反発みたいなことをよくしたがって、そうすることによってなんでも在っていいんだと言いたかった。でもなにかを提唱することはなにかへの批判になってしまった。正しいことなんてないんだという提唱は正しいことがあるということへの批判になった。ぼくはこれを正しいとおもう、と言えなくなった。自分で自分を撲殺してきたぼくは、考えたとおりにぼく自身を作り上げたけど、それは適切なかたちじゃなかった。ぼくはそこでようやっと、自分が不器用だってことに気が付いた。
なにかに傾倒することはひとつの視点でしか見られなくなって危険だって、そう言ってぼくはぼくの熱を閉じ込めた。クレバーさを演出して、ぼくはひとりの人間で、きちんと考えていて、ぼくの言っていることには意味があると言おうとした。

 

ぼくは、ぼくの言っていることには意味があるんだと言おうとした。

 

ぼくはぼくの思うとおりにやさしくありたいし、ぼくの思うとおりに情熱的でいたいのに、それだとこの世界ではやりにくいから、ぼくはそんなに強くなかったから、そのままでいることをやめた。ほんとうはこんなに普通の顔をしていられるようなものではなくて、実はもっと外れて遠くにあるものなんだという認識を、いまのぼくはしたかったのかしたくなかったのかよくわからない。けど、ぼくの「変わっている」認識は、この社会でにこにこしながら負荷を感じずにスマートにやっていけるような生易しいものじゃなかった。じゃなかった、ということを、ぼくは知ってしまった。
ごまかしておけばよかったのにと思う。うまくやっていけないのは気候の変動のせいで、バイト先が少し混んだからで、雨が降ったからで、周りの人が喧嘩しているからだってそれでおさめておけばよかったのに。

いままでぼくはほとんどしらない躯体の運用の方法を模索していて、ある程度確立したと思ったけど、それはべつに調べなくてもいいものだった。躯体のことを勉強して動かしていたくせに、その躯体を動かす必要性については考えなかった。

 

自分の生活をシアターで、画面越しに見ていたのは、そうして間接的にしないと耐えられなかったからだ。

 

ぼくは何者で、どこへ行くべきなのか。