苦痛の所在

「誰かぼくをぼくが平均になる世界に連れて行ってよ」

ぼくは最近誉められること、というよりはもう肯定されることにすら苦痛を覚えてしまうようになって、別にぼくだって何ができるわけでもない、人よりほんのすこしだけ器用で語彙が豊富で、世渡りが上手なだけ。本当にそれだけで、特技らしい特技だってない。なのになんでみんなそんなにぼくを「何の問題もないいい人」にしてしまうのか。
ぼくにだってできないことはたくさんあるし、必ずしもいい人ではないのに。平均的に見て問題がないかもしれないけど、そもそも平均で見て判断するようなことじゃないのに。誰だってできることとできないことがあって、ぼくはその視点で見ないときちんと人が見えないと思っているのに。

ぼくはなんで苦しいのか?なにが嫌なのか?この評価がぼくの視点では間違っているから?同じ程度の人が少ないから?みんなにきちんと見てもらえないから?ぼくができることもあるけどできないこともあって、無理してできないことをできるようにしてるから?それで疲れてしまうから?
具体的に「本当にダメなやつだな」と言われるときっとすごく安心する。きっと力が抜ける。ちゃんとしてなくて、何もできなくて、知らないことばっかりのぼく。
「優しくて何の問題もないいい人」がすごく嫌だ。

「ぼくの意識は『楽だ』という事実に基づいて窒息して死ぬ」
「だれもが優しすぎてぼくは甘すぎるので世界がうまく回らない」
「ただぼくは優しくなりたくて、世界のすべてが反対したとしてもぼくだけは自分を信じていられるような、たとえば、それくらい強くなりたい」

ぼくは今もまだ自分の至らなさをきれいに説明しようとする癖があるけど、いまはこの原因が「日常がチャレンジングではないこと」だと思っている。
ぼくはたぶんめちゃくちゃな完璧主義で、ありえないくらいの倫理観を持ってしまっていて、その強さがでてしまった形なんだろうと。ぼくは誰だって許してしまいたくて、全部ぼくのせいにしても笑っていられるくらい強くなりたくて、ぼくの人生をぼくの責任で歩いて行きたい。たとえばその出来事も、解釈も、出会う人々の発言でさえ。でもぼくのそっと押されただけで吹き飛んでしまうような強烈な感情はそれをとても難しくしていて、ステップを踏んでいくことはぼくにとって本当に難易度が高い。
ぼくは自分がそういう人間になりたくて、でも今のままじゃあ全然なにも足りていなくて、本当はもっと優しく強くならなきゃいけないのにみんなに肯定されて誉められるからぼくはいつもその位置で甘んじてしまう。だからこれは、きっと手酷いぼくの弱さだ。
贅沢で論外な苦しみ、ぼくの見定めている物と現状の行動はひどく矛盾している。
少なくとも、こうして理論付けをした場合においては。

でも、贅沢だけど、ぼくは苦しんでしまう。
たとえばそれを価値判断に含めなければ、ぼくは「それでもいいよ」とぼくに言えるんだ。
人の価値判断に委ねられないくらいの特異な苦しさは、ぼくが自分でいいよって言ってあげるしかない。それがどんなに贅沢で、甘えてて、下手をしたら怒られるような苦しみだって、どうしてもぼくにとっては苦しみでしかありえない。

だめなぼくは確かに存在して、なにもできないぼくだって存在する。それは他の人に判断されるものじゃないし、判断されるものじゃないからこそしっかりとぼくに刻みつけねばならない。ぼくしかその存在を担保する者はいない。

ぼくは万能ではなくて、平均とは無関係で、できないことがたくさんある。ぼくのできることがいらないような場所へ行ったら、ぼくは何もできないし、そこでは必死に他のことができるようにならなきゃいけない。だから、ぼくは何もできない。まだ、ぼくはできるようにならなきゃいけない。

きちんと息を吸って、明日も生活をします。