がらくた状の反証

なにかを言葉で理屈付けて説明しなきゃそれは在っちゃいけないんだよなんて誰が言ったの。

世の中にはことばが蔓延していて、ストレスがよくないだとか、決まりは守らなきゃいけないだとか、本を読んだ方がいいよだとか、運動した方がいいよだとか、これはかわいいこれはすてき、ありとあらゆるものを説明して、言葉自体というそれは道具のように見えるけれど、ぼくらはそれをどんな気持ちで使っているの?

ぼくらが表すのは自由だと言われたらそれはぼくらが自由であることを意味するのだろうか。なにひとつ上手く伝えられないままで、吐瀉物のように言いたかった残骸だけをはき出して(わたしの趣味は、だとか)、言いたいことを言っていいのよ、と言われるとその瞬間にぼくの言葉は喉の奥でしんでしまう。言いたいことがなんなのか判るようになるまでにあとどれくらい不完全な部品を吐き続ければいいのだろうか。ぼくの言いたいことは言葉になるのだろうか。道具を道具だと思える日が来て、使えるようになる日がくるのか、言葉にふれて、そのかたちを、手触りを、温度をみて、そうこれがまさにぼくの言いたいことなのだ、と言える日がくるのか。

なんにもわからないのに喋らなきゃいけない日々が続くように、なんにもわからないのに送らなきゃいけない日々が続いている。寄る辺なんてない、なにかを正しいって言ってしまったほうが楽なのに、ぼくは自分への反証の反証に反証を重ねている。
くずれおちるミルフィーユ状の反証をぼうっと見続けてわかるのは、正しいことなんてないから、ぼくは自分のなにかを正しさにしなきゃいけないということだけ。でもぼくは自分のことだってなんにもわからない。

ぼくはいつも「それはなぜか」という問いを投げてしまいすぎる。きっと明確な論拠がなくては言い切ってはいけない、と思っているんだろう、まるで人間社会のゲームに適応するあまりに人間であることをやめてしまったみたいだ。

言葉で理屈を付けなきゃそれは在っちゃいけないってそれはぼくが言ったんだよ。
だってそれは在るんだなんて言い切れる強さを持っていなかったからね。

ぼくのすべてはセンサーの強さだ。恐怖も失望も悲しみも自責の念だって、強烈に感じることがなければきっとこんなに悩むことだってなかった。ぼくが言ってることはなにかの転移に過ぎないなんて考えることだってなかった。すべてに答えを出さなきゃいけないなんて追い詰められること、も。
こうして転嫁することが本当に正しいのかと思うこともなかったんだろ。

この苦しみがなにを生み出しているのかぼくにはまだわからない、積極的分離が発展していくのか、それとも否定的分離でおしまいまで向かってしまうのか、ぼくにはまだわからないけど、きっとその過程で生み出す吐瀉物がぼくのすべてだ。