ぼくの恋愛観について。

ぼくの恋愛観について。

ぼくは言ってしまうなら恋人はいらないと思っているし、ひとりで世界を楽しむことができるならそれでいいと思っている。たとえば誰かと一緒に生きたらそれはそれで2倍、3倍の楽しさがあるだろう、でもぼくは人と親密に、長く付き合っていくことがとても苦手なんだ。ぼくの感性や価値観を理解して受け容れてくれるひとはごくわずかだし、そもそもぼく自身が基本的に他人に我慢ならない。
そして「友人」「親友」までならぼくは大抵どんな人とも付き合うことができる、でも「恋人」になると、その範囲がほんとうにほんとうに狭くなって、ごくごく一部、ほんとうにほんの一握り、一つまみだけ、ということになる。

それが何故なのか考えてみたけれど、どうやらぼくは「恋人」を「他人という括りの中で唯一、自分の世界に直接的に関与してくる人」だと思っているみたいだった。「友人」や「親友」ならぼくはとてもうまく客観視ができる。ぼくの物語に踏み込んでこない、ぼくの生活に踏み込んでこない、でも一緒にいると楽しい「他人」。

前々から話しているけれど、ぼくは自分の世界を、どこか目の前で上映されるエンターテイメントだと思っているようなふしがあって、たとえばこの上映されている映画のなかでどんな衝撃的な出来事があっても、たぶん本当の意味で崩れて壊れてしまうことはないんだろうと思う。実生活ではかんたんに笑うし驚くし泣いてしまうんだ、それが嘘なわけではないんだけれど、そうやって笑ったり泣いたりしながら、ぼくの中では第三者の目で現実を見ているもうひとつの瞳が存在する。それが少し怖くもあって、でも、たぶんこれでぼくが崩れてしまうことはない、と少し安心している。そういう感覚は、道徳的に考えればあまりよくない方に属するのだと思う。目の前でたとえ何が起こったとしても、ぼくは自分の根っこから動じることはない。というか、たぶんできない。それを世間では「冷徹」と呼ぶのだと知っている。

でも、これは「揺らがないこと」と言い換えることができると思うけど、揺らがないことは本当に悪いことなのか。「人間らしい」と言って感情を発露させることが推奨されることの必要性はなんなのか。ぼくたちは社会に生きていて、社会で生きなければならないすがたをしているけれど、その社会のすがたが正しいという根拠なんてない。巷で使われている「本能」なんて言葉の根拠だってあまりにも脆い。ぼくは誰の目を見たってはっきりと言えるよ、正しさなんて誰も強制はできない、ただ自分で創っていくだけだ。ぼくらは自分の経験を重ねて、その中から大切なものを取り出して少しずつ少しずつ積み上げていく。そうして積みあがったものがぼくらの正しさであり、ものさしであり、言語である。社会に蔓延している「正しさ」は、「価値観の大衆性」と言い換えることができる。

というわけで、ぼくの世界は「世界」に対して閉じている。ただぼくは「恋人」というものを、一緒になにかを創っていくもの、また、それ故に唯一ぼく自身、ぼくの世界に入ってこれるもの、と思っているらしかった。だから、「恋人」には開かれているのだ。基本的には。

ぼくは「恋人」として付き合える人の範囲が極端に狭いという話をした。それは、ぼく自身が「自分も相手も、お互いに刺激になれるような人」でないとぼくの世界を開くことができない、と思っていることから来ている。有り体に言ってしまえば、ぼくが尊敬できるような人、ぼくの価値観というものさしで見たときに、どこかの分野ではぼくよりも優れていると思えるような人でないと、ぼくは付き合えない。そうでない人だと、自分を開示することへのひどい抵抗と苛立ち、また失望と悲しさを感じる。そして、そういう人かどうかは、実際にぼくの世界を開示しようとしてみないとわからないのだ。「友人」があまりにもぼくの世界から遠すぎるがゆえに。


たとえば誰かが「それはどうなの」と言ったら、ぼくは「これがぼくの世界のスタンダードだ」と言える。人間はいつだって、うっかりしたらすぐに死んでしまうような「脆さ」という影を自分の中に飼っているのに、そのくせ簡単なことでは死にやしないんだ。ぼくがいくらいろいろなところに飛び込んでいったって、常識から外れた行動をしたって、大衆的でない生き方をしたって価値観を持ったって、ぼくは今まで生きてきたし、むしろ死のうと思っても死ねなかった。そんな理不尽さが少しむかつくけど、いまは感謝することもできる。
二十年とすこし生きてきた今だって、未だに呆然と立ち尽くしているし、少しのスキルだってマスターしていない。生まれたときとなにが違うんだってくらいに無知で、どこに行きたいかもわからないまま手探りでそろそろと歩いている。世界のなにを知れるって、ぼくなんかが何かをきちんと知れるわけがなくて、それでもぼくは何かを知りたいし、少しでも物の名前がわかるようになりたい。ぼくが何を好きなのか知りたいし、世界がなにを考えているのか、ほんのちょっとでも考えてみることができる方法が欲しい。だからぼくは知らない言語を練習するし、新しい語彙を探すし、様々なところに出かける。ことばでぼくの世界を整理する。日本語にしか表せないものがあり、英語にしか表せないものがある。

ぼくらはいつだって自分のことを赤子だって思っていいんだと思う。
いつだって、何をやってみたっていいんだと思う。





きっと、そうやってぼくらは自分の世界を創っている。