The distinction

なにか書かなきゃという未知の力によってキーボードを打っているけど、ついぞ喋る言葉が見つからない。年が明けてから沈黙を増やすことが多くなった。適切なことを適切な人に適切な方法で語るということを考えている。意識のリソースが限りなく小さい人間にとって、一年の区切りを生み出してくれる年という概念は有用だな、ということとか、そういうくだらないことも。

興味のあることばかりを追っていると世界が狭くなる、というけれど、興味のあることを追わないと言葉が生成できなくなる、みたいなことはあるような気がする。圧倒的な文字の渦におぼれて息ができない、みたいな、自分の何倍もの濃度で質量が存在する、みたいな、そんな場所で窒息して、自分の目がかすんで、脳の裏側がじわじわと黒に蝕まれていって、はじめてぼくはぼくの個別さに気が付く。境界のあるこの身体をどう記せばいいのかわからないし、記すということがどんなことかもわかっていない。もしかしたら自己主張をしたいだけなのかもしれない。でも、一個の人間だということをみて、そしてだんだんそれはどんなことなのかわからなくなるということが起こっている。有機的な配列がこの営みのすべてを吐き出しているのなら、ぼくはなにもかもの境界をどこに定めればいいんだろう。文字を生み出す衝動としてのシグナルが、帰り道に見ることができるネオンと同じだというのなら、ぼくはもう少し何者でもないという気持ちで溶けて、別のものになってしまってもいいような気がする。

日々を生きるのが難しいのはずいぶん昔からのことで、技巧をこらしてうまくやっていくけれど、それが通じなくなれば塗り重ねられた絵具はばりばりと音をたててはがれて崩れ落ちてしまって、そこからまた行動様式の理想モデルを構築しはじめる。
幸いそこに念入りな観察がいらないということがぼくの唯一の秀でている部分みたいなもので、そこかしこに無数に乱立している社会に適応しようとするときに、即座にきちんと最適解を導き出してしまう癖がある。その最適解を自身に適応することの辛さはその社会によって違ってくるから、やはり他の人みたいに合う合わないみたいなものがあるのだけれど、コーティングを塗り重ねすぎてしまったせいで、ぼくはなにがぼく自身の最適解なのかわからない。アニメもゲームも漫画も本も、勧められたものはなんでも面白いと思うけど、ぼくには好みが生まれない。二十数年生きてきたけれど、あらゆるものを思想として解釈する以外の評価ができなくて、好きなものを語るなんていう場ではいつも条件式をつけたがる。社会に基盤として蔓延している好みがどんな構造なのかわからなくて、ぼくはいつもその表層だけを読み取って模倣する。
ミュータントはいつか他人の塩基配列によるその画を見ることができるのか。

結局ぼくはひとつの粒子みたいにひたすらどこかに浮遊するしかない。意思というものがなんなのかわからなくなってしまったし、その言葉でなにを解釈することが適切なのかもわからなくなってしまった。みたいな、ような、という言葉を多用するのも、ぼくの解釈や言葉の使用がひとと一致していないという、自信のなさの表れのようなところがある。絶えず区切りを強いられる場所で区切り方がわからない、ということに尽きるのだけれども、断絶がなければなにも生まれないということは理解しているつもりだし、いいかげんあきらめてしまえば、と思っているぼくもここにいる。
ぼくがぼくの定義と文法で話し始めたとき、そこになにが生まれるのか本当にわからない。少し恐ろしくもあり、もうこんな宙ぶらりんな苦しさは置いていきたいという気持ちもある。
機械と人間についての本を読んだらなにかが解決するかと思ったのに、ぼくは世界の在り方が解釈が余計にわからなくなってしまった。

意思、定義、断絶、内包、原子、ぼくの指先でキーボードが跳ね返る感触。
深夜の暗さに染まって区切りが曖昧になるその世界が好きだけど、そんなぼくを、ぼくはまだまだ子供だなと思う。