対立、共存、反発、拮抗、そして観察者

思考と答えが生まれる狭間
ぼくらが言葉に詰まる領域
その空白を残したままではいけないと
懸命になにかで埋めようとするぼくら

何が糧で
何が害で
何がぼくらの言葉を形成しようとしているのか
もうなんにもわからない
そうして、
もうなんにもわからない、なんて
ひたすらに吐き続けながら
ぼくは、
ほんとうになにもわからないのか?
と思う
ぼくはいつだって、
少しずつ自分と世界に嘘を吐きながら生きている
行きたい方向はわかっているのに、
その方法がわからない。
切符の買い方は教えてもらったけど
行きたいところへ行くための列車がないんだ。


何を読んだら、何を体験したら、どこへ行って何を見ればぼくがなりたいようになれるのか、ぼくは全然わからなくて途方に暮れている。
どうすればむつかしい本が読めるようになるのか、あの先生と成熟した話ができるようになるのか。知識がつくのか。知らないことを知るためにどうやったらいいのか。知らないくせに、知りたいことはそこに確かにあって、ぼくはいつだってそこへ辿り着きたい。昔も今もぼくは自分に全く満足がいかなくて、なぜこんなに物事をしらないのか、知ることが途方もなく遅いのか、自分を責め続けている。
もう少しで何かが変わる時がいちばんつらい。自分の駄目さが際立って、それでもなにもわかれなくて、落書きみたいな残滓を生みながら日々をやっていくしかない。それでも、また、別のなにかが、生まれるようにもがかないといけないんだ。たぶん。
きっと、変化し続けないと死んでしまうからね。
ぼく自身がアフォリズムにでもなってしまえばよかったのに。

記号のもとの運動はきっといずれその記号さえも変えてしまうんだ。せめぎあうぼくらの矛盾、その拮抗を収めてはいけなくて、その運動それ自体を、狭間で起きているものを、それこそがそのものなんだと解釈することが、大切なんだと思う。ぼくはぼくという記号のもとに行われるひとつの運動であって、運動によって変わり続けるその記号すらも、それはもはや只の死んだイメージではない。
ぼくの解釈によって構成されるこの寓話みたいな世界にも、生物的な運動があり、またぼくだってもう少し、自身の生物的な運動を、つぶさに見てみたっていいんじゃないか。
理性に侵されたぼくの解釈は、もう少し生物的な営みの声を聞いてあげたっていい。
寓話の解釈に飽くのは、水盆を引っくり返して咆哮してからでも、きっと遅くはないんだ。