倫理と論理、その果て

ぼくは倫理に逆らい得なかったその果ての姿だ。

世界に納得がゆかなくて、じゃあぼくは客観的な正当性を得ればいいと思ったんだ。それはもう、考える道筋として至極単純にね。
論理的に考えればいい。世界は整合しているはずで、なにかひとつの絶対的なものがあって、それを基盤にすればなんだって説明できる。すべてに顔を向けて言えるような、これがこうだからぼくはこうなのだと公言できるような、つまりそれは、自己保身のために徹底的に自己を無くすという行為だった。
自己を無くして大きな何かへと自らを委ねることが必ずしも間違いだとは思わないよ。言葉には用法があり、故にそれは世界と同等に成り得るのだから、様々な世界があるだろう。
でもぼくはその思想の本流には乗れなかった。懐疑主義虚無主義も、大体は納得がゆく。でもなにか変な差異があるんだよ。ぼくの存在に、世界の解釈に、ぴたりと張り付かない。そうだと言ってしまえばそうだ、でもそうでないと言ってしまえばそうでない。正当性を追い求めた先にあるのは違和感だ。客観性という観点を捨て去らないのならば、そこに残るのは納得の行かない、説明の仕様のないなにかの残滓なのだ。

薄々わかってはいた、のだと思う。論理で片付けきれないようななにかがあるわけではなく、ぼくにとって論理で片付けることを許さないようななにかがあるのだ、ということを。なぜ論理に拘るのか、その答えを自分はもう知っているということを。

いくら哲学書を読み解いてもぼくの望むような答えは出てこなくて、それはぼくの望んでいる答えがあったからだった。それをぼくはニーチェの、ある種ひどく文学的にも思えるようなテクストの中に見た。
それがきっとぼくの目指したい方向性だった。

まだぼくは、この方向の決着点を「落とし所を見つける」というところにしか見出せない。でもたぶんそれは少し間違いな気がする。
ぼくの世界は世界としてあればいい。それがたとえば荒廃していたとしても、素晴らしい美しさが注ぐような在り方であっても、黒一色でも白黒写真でも、それが世界としてあればいい。ぼくはぼくだと言えばいい。だってそうだろ?それしかないだろ?
世界のすべては、そのすべての名の元に、永遠に個別でしか有り得ない。

意味なんてものは、創りたければ創ればいいんだ。矛盾なんて知ったこっちゃない、ぼくは、ぼくの愛するものを愛す、そうしてそれしか出来ない。




迸る感情を表すことばを、
ぼくはまだ持てないでいる
色鮮やかにぼくを毒する美しい風景
ぼくが変わる度に、もうそれきりで、永遠に会えないような風景
その景色を
ぼくは今だけの言葉で表す
未来のぼくがそれを見つけた時に、その風景はもう二度と同じようには見えないけれど、
そうやってぼくの世界は美しく在る


まだなにも足りてない、
きっと毎分毎秒のぼくは常にそう言っている
でもきみと同じではない、
ひとつのぼくはすべてのぼくにそう放つ


ぼくのこぼした涙は紛れもなくぼくのこぼした涙だと、誰がなんと言おうとぼくがそう思うからそうなのだと、ぼくは言い張ることにきめた。
ぼくのことをすべてぼくが背負おうときめた。


なにも見えない闇が、眼前でしずかに煌めいている。