ある午後におけるぼくの中身

ぼくはメタ認知が得意だ。いや、精確に言うならば、メタ認知が得意だというよりはそれでしか物事を捉え考えていないということになろうが。

ぼくはどこまでもメタ認知によって問題の外側へ外側へと歩み続け、その結果として終には主観の外側へ辿りついてしまったのだ。もちろんその外側とはあくまで主観の内側に存在する外側でしかないのだけれど、ぼくはそこを外側だと認識することによって、あっという間に主観としての瞳を失ってしまった。

論理は、価値は、そもそも世界のすべては、人間が生み出したものだ。ということを認知した。認知したということは存在するということだ。事実として、その論理と人間との関係は存在するのだろう。
しかし、それでも、価値を創ったのは人間だ、というその先――その外側――にぼくは行けない。なぜなら、ぼく自身が人間であるからだ。
感覚として、ぼくが人間であるということから離れて俯瞰して見ているその景色は根本的に間違っている。その「根本」がそもそも存在するのかどうかさえも。何故ならそれはぼくという「人間」が見ているものだからだ。価値と人間の関係を認知している、認知しているがそれは人間の側から認知しているのだ。仕組みの幾許かも解き明かされぬままの、その人間の側から。
たとえば言葉で言葉そのものを語り得ないように、たとえば論理を使う以上はそれ故に論理そのものを語り得ないように、反省的なものにはおそらく殆ど必ず「語り得ぬもの」が存在するのだろう。



ぼくたちは、人間でしか在り得ない。そしてまた、ぼくたちは、ぼくたち自身でしか在り得ないのだ。

知性は罪だと提唱する知性

ねえ君、好きなことをしているからと言って、それが頑張っていないということの証明になるかい。ねえ、君、仕方がないから、自分のせいだからと言って、それが君自身を潰してよいという理由に、果たしてなるだろうか。
ねえ、お願いだから、どうか、ゆっくり休んでくれないか。
君自身の君のことを、その頭をきちんと撫でて、どうか涙を流してあげてくれないか。


ぼくは、ぼくはさ、もう疲れてしまったんだよ、ぼくはさ、世界の真っ只中で生活をしながら、常にその世界の矛盾について考えていることに、もう疲れてしまったんだよ、ぼくは、幸せになりたくて、誰かを幸せにしたくて、ねえ、好きな人が笑っているのを、幸せそうにしているのを見たくて、でもこの阿呆な知性はそんなことを気にもかけてくれない、ぼくのしたいことを、重要だとは考えてくれない、こんなポンコツならいっそ無い方が良かった、煌めく星を見てきれいだねって笑えたならもうそれで良かったのに。

要らなかったんだ!僅かな差異を見つけ、考えていることを考え、挙句の果てに正しさの物差しを失ってしまう、失わなくてよかったものを失い、得なくてよかったものを得ている、どこまでも愛するもののことを考えないこの知性なんて要らなかった。素直に美しいと言えずに滞って澱んだ解釈は、ぼくの内側に着々と蓄積してゆく。ぼくはそれを解毒しなければならないと言って事細かに調べ始めるのだ。ああ、ぼくはぼくに言いたい、それがどうして解毒になろう!たとえば分解し尽くしてその元素記号までがすべて解ったとして、じゃあその質量もすっかり減っただろうか?それは、君、ほんとうに器の内からすっかり無くなってしまったのか?
そうだというなら、なぜ、今、そんなに顔から血の気が去ってしまっているのか?
なぜ、そんなに精気の失せた眼をしているんだ。

美しいものを見て美しいと言えれば、好きな人に好きだと言えれば、つまりぼくは愛おしいものを見て愛おしいと思えたならもう白痴だって何だってよかった。自分が死ぬということすら知らないままに死んでしまっても、もうぼくはそれでよかった。忌々しいこの知性、どうにかしてぼくから引き剥がしてぐちゃぐちゃに丸めて千切って踏みつけて海に投げ捨ててしまいたい、跡形もなく燃してしまいたい、そう言ってぼくの知性はさめざめと泣く。ぼくの知性はもうどうにもならないと言ってぼくの知性が泣くのだ。
たぶん、これは人間の業なんだと思う。




ただ笑って泣いて怒って赦せたならぼくはほんとうにそれでよかったのに。

思う、世界

愛するものがたくさんあってどうしたらいいのかわからなくなる。
すべてが愛おしいのにすべてを愛するのは難しくて泣きそうになる。なにもかもが優しくてぼくはなにもかもに優しくしたいのによくその通りにはならなくて悲しくなる。
世界はとても優しくてぼくをいたわるのに、ぼくは何故泣きそうになるし空虚を感じるし辛くなるんだろう。

なにもかもこの世のすべてが叫び出してしまいそうなくらい大好きで抱きしめたいと思う。
そうしてその場で泣きながら頽れて永遠に眠ってしまいたい、世界のすべてに愛を与え尽くしてそうしてぼくは息絶えてしまいたいと思う。

たとえば、神は何故、自殺をしないのか。

ぼくだったらもうとうの昔に死んでいる、自分が全知全能であると悟ったその日から三日後くらいには、きっと、もう、世界とともに死を選んでいる。神は何故、自殺をしないのか。

知っている。彼らの言う"神"はそんなにちゃちなものではないということを。人類の幸福を担保する彼は、おそらくそれ故に幸福であらねばならない。だからきっと、苦悩などというものを知らず、自らの命を、生を終わらせるなどという選択肢も存在し得ないのだと。
神という言説が存在する。神は無限で居られるし、たとえば毒ニンジンの杯を仰いで死ぬこともできる。そうすると、毒を飲んで死んだ神が再び生まれる。しかしその瞬間においては、つまりぼくが「そうすると……生まれる」の箇所を記述した瞬間においては、毒ニンジンの杯を仰いだ神しか存在しない。毒を飲むことを選んだ神は、その瞬間、無限に生存する神では居られない。しかし、今、無限に存在する神はこうして書かれる。存在する。

ぼくは自分の世界ですら自分で担保できない。
ぼくが彼を嫌悪すれば、ぼくの世界には悪を備えた彼しか存在できない。ぼくが神に毒を飲ませたならば、ぼくの世界において、神は生きて無限であることはできない。
そうして何かを規定してしまうことが、ぼくにはとても痛い。自分の世界を認識できるように枠を決めること、つまり理性を持った人間であるということが、ぼくの苦悩として存在している。ぼくのみがぼくの世界の支配者であることに耐えられない。ぼくの世界に対して全知全能であることへの絶望感だ。ぼくは、きっとそれをきちんと統治できるほどの技量を持ち合わせてはいない。そして、すべてが思った通りになるということ、すなわちぼくが全くの自由であること、それはある意味ではあらゆる可能性の消失なのだ。耐えられるわけがない、と言いながらぼくはこの先もきっと息をしてる。

訴えかけられるすべてに対して納得したくない。そしてまたすべてに対して、深く納得し受容したい。なんにでもなれる可能性を説いて、可能性などは存在しないということを教えたい。
たぶん、それは、「非他なるもの」に少し似ている。




「ぼくの生は絶えざる克己である」
「そして、その言説はすべて寓話である」

 

きれいに錯乱の色で埋め尽くされたぼくの視界

ぼくは、精神を狂わせて、その意識を仮象の奥底に沈めなければこの世界で生きてなどゆけなかった――ゆけない、のだ。
だから、きっと常に狂っている。こうしてぼくが今現在詭弁を弄しているという事態こそが、その事実を証明している。二重に狂っていると言ってもいい――人間は人間として意識で生きている以上、全員狂ってしまっているのだから。全員、どこかしら欠損していまっているのだから。
人間は人間だから不完全なんだ!ああ、楽しいなあ、完全な人間なんてどこにも居ないんだぜ、ぼくたちに知ることができないものはぼくたち永遠に知ることがない、ああ、そうして世界は永遠に欠損している!完全で真理を胚胎しているはずの世界は、ぼくたちにとっては絶対的に不完全なのだ!素晴らしい感覚だね、美しいぼくらの欠損、失って取り戻すことのない何か、抱きしめたいほど愛おしい、こうしてこの狂った人格さえも、愛すべきぼくの欠損になる。
欠損を愛するぼくという現象がそもそも欠損を内包しているというその事実を、ぼくは欠損しているからこそ半ば狂ったように愛している。

きっとぼくは今も錯乱しているのだ。あの頃自らを切り刻んだ深い夜も、泣きもせず床に頭を打ち付けていたあの日も、独房のような灰色の部屋で閑暇に喰い潰され自己を見失ったあの時間も、狂っている振りをしていたあの頃の全てすら、きっとぼくはいつでもいつまででも狂っていて、正気などというものは持ち得ないのだ。
ぼくはいつだって馬の首に縋り付いて頽れたい。この世界の重力に耐えられないのだ、この重さにまともに向き合い、そうしてそれでもひたすらに狂わずに居られることなど、ぼくには不可能なのだ。
だから人間はこうして虚構を創ったのに。ぼくはその薄衣を剥いでしまった。師は何も教えてはくれなかった。なぜなら彼は、この世界と生を盛大に愛していたのだろうから。

ぼくは今も早く錯乱してしまいたい気持ちでいる。昔のぼくの遺した遺言を解することもなく、早々と世界の闇に包まれ、墜ちるのだろう。なぜならぼくは世界であり、世界の欠損であり、失われ、知ることのできない真理であり、可知的なものでありながら絶対的に不可知的だからだ。ぼくこそが世界の元凶であり、重力として存在している。
ああ、聞こえているのか!ぼくはもう早く狂ってしまいたいんだ――ぼくの知性はこの世界、そしてぼく自身に耐えられなかった。痛いんだ。疼くんだよ。そしてそれだけの話なんだ。


左腕に亘る真白くなった傷痕も、8年間飲み続けた薬も、閉鎖病棟の拘束具だって、それは結局のところみんなみんなぼくの狂気の現れだったんだ。

必要不可欠なぼくらの空洞

ぼくは
消え入りそうな
この中身を持たない空虚な言葉で
ぼくの空洞を満たす
満たさなくてもいいことと
決して満たされないことを知りながら
ぼくはさながら道化のように
空洞を埋めてゆく

空虚の中に
そうして空虚が積み上がり
それでもぼくの口の端は
言葉を紡ぎ続ける
まるでなにかに追い立てられているような
恐怖に駆られた眼をしながら


ぼくたちは、
この残酷な空洞に耐えられない
だから言葉を作り
虚構を組み立て
知っていることに目を塞いだのだ
真実を屠り
自分の一部をそうして墓に埋めたのだ
ぼくたちは、
たくさんの知らない言葉を聞くことで
人を愛し、人を憎み
そうやって人と関わることで
たくさんの言葉で世界を埋め尽くすことで
埋められぬ世界を埋める

だからぼくは、
「彼らが必要だ」と
口の端で語り続ける

解釈が積み上がること、そしてその愉悦

新しいことを知るのは面白い。たとえばそれが生を惜しむ理由にならないとしても。

いろいろな本を読み、いろいろな人の話や講義を聞く。そうするとぼくの中に、その話す当人の視点や思考法、つまりその人なりの世界の解釈を仕舞ったひとつの抽斗ができる。そして然るべき時にはその中を覗いてみるのだ。そうするとその技術、解釈法を適用して、意味の転換や理解がより巧妙にできるようになる。

そうして自分の中に他の解釈、視点が積み上がってゆくこと、それこそがぼくにとってはほんとうに愉しい。
ああ自分はまだこんなに馬鹿であった、知らぬことも世の中にはごまんとあるのだ、そうして新しい世界を知る。それがどうして快いことでないことがあるか。

講義の方がうまく吸収できる、という感覚がある。たぶん、当事者的役割の濃さの問題だと思う。
没入感に差が出るのだろう。相手と言葉を交わすよりは、講義を聞いている方がより仔細に観察できる。余白の問題、距離の問題だ。



どうも、韜晦的なぼくは伝わるように説明するのを嫌う節があるらしい。すべてが明瞭に理解できるような細やかな文章を書く気になれない。何故だろう。