世界の解釈

迸る感情が、表出を求めてぼくの内側を喰い破ろうとする。
何への愛だろうか。そもそもの彼への愛か、知への愛か、優しさへの愛か、柔らかさへの愛か、それとも愛への愛か。
強烈な行き場のない感情はどうしようもない文章になって、小さな世界をひとつ創り上げる。なにかに繋がればいい、と呟いてはみるが、もとより目的なぞ存在しないのだ。
書かれるべくして書かれた、そこに必然性こそあれど必要性などは端から持ち合わせていない。そういう文章は、たとえばこうして描かれる。


ぼくはどこへ行きたいんだろう。ときどき呆けた顔をして、虚空を見つめながら問うてしまうのだ。何がしたい、ではなく、どこへ行きたい、のか。

終着点はあるのだろうか。求めているのだろうか。いや、なにかを外部に求めているというよりも、ぼくはただ単に、自らに潜む空虚さを埋めようとしているだけのような気がする。

ぼくの世界の解釈は、本来的な熱を持たない。まだ、上手く言えないけれど。解釈自体は冷え切ってしまっているような、ぼくが色を撒くのに成功すればその部分だけ一時的に熱を持つような。
いまのぼくは世界のことを考えるのがとても楽しい。ニーチェハイデガーセネカプラトンまで、さまざまに感じて考えたひとりの人間である彼らの思考に埋没することも、とてもとても楽しい。たとえばギリシア神話を創り上げ信仰した彼らのことや、その神たちの見ていた世界でさえも、本当に面白く思う。
ただ、そのぼくが今感じている楽しさ、火照る熱の裏側には、どうしようもなく埋められない空洞が存在するのだ。彼は思い出したように時たま顔を出してはぼくに問いかける。おいおいまさかぼくのことを忘れているわけじゃああるまいな、と。問いかけられたぼくは、ああ、とその場で一度立ち止まってしまう。なにを忘れていたんだっけ。ぼくは何を考えていたんだっけ。足りないものはなんだったんだっけ。ぼくはそれを知っていたっけ。そうして止まった足は鉛のように重くて、その場から容易に動けそうにはない。空虚をただ見つめ続けることしかできない期間が始まる。
でも、漠然とだけれど、これは忘れてはいけない空洞だと思う。ぼくの身に定期的に起こる気分的な空虚さと、ぼくの世界の解釈に空いた空洞は、なにか同じもののような気がする。まあ、まだ具体的にはなにもわからないのだけれど。

何が間違っているだとか、ほんとうはぼくらにはきっと言えないのだ。
ぼくの世界のぼくの解釈、きみの世界のきみの解釈。そうしてぼくはきみの世界のきみの解釈しか解釈できない。ぼくらは同じものを見れてはいない。見ることは決してできない。きみの見た青い空は、ぼくが見てもほんとうに青いのか。確かめる術はない。

でも、それでも、ぼくらの視線が交わるのは、交わることができるのは、何故なのだろう。

わからないことはたくさんある。わかれないこともたくさんある。
でも、少なくともいまぼくはぼくの世界を、そう解釈している。