必要不可欠なぼくらの空洞

ぼくは
消え入りそうな
この中身を持たない空虚な言葉で
ぼくの空洞を満たす
満たさなくてもいいことと
決して満たされないことを知りながら
ぼくはさながら道化のように
空洞を埋めてゆく

空虚の中に
そうして空虚が積み上がり
それでもぼくの口の端は
言葉を紡ぎ続ける
まるでなにかに追い立てられているような
恐怖に駆られた眼をしながら


ぼくたちは、
この残酷な空洞に耐えられない
だから言葉を作り
虚構を組み立て
知っていることに目を塞いだのだ
真実を屠り
自分の一部をそうして墓に埋めたのだ
ぼくたちは、
たくさんの知らない言葉を聞くことで
人を愛し、人を憎み
そうやって人と関わることで
たくさんの言葉で世界を埋め尽くすことで
埋められぬ世界を埋める

だからぼくは、
「彼らが必要だ」と
口の端で語り続ける

解釈が積み上がること、そしてその愉悦

新しいことを知るのは面白い。たとえばそれが生を惜しむ理由にならないとしても。

いろいろな本を読み、いろいろな人の話や講義を聞く。そうするとぼくの中に、その話す当人の視点や思考法、つまりその人なりの世界の解釈を仕舞ったひとつの抽斗ができる。そして然るべき時にはその中を覗いてみるのだ。そうするとその技術、解釈法を適用して、意味の転換や理解がより巧妙にできるようになる。

そうして自分の中に他の解釈、視点が積み上がってゆくこと、それこそがぼくにとってはほんとうに愉しい。
ああ自分はまだこんなに馬鹿であった、知らぬことも世の中にはごまんとあるのだ、そうして新しい世界を知る。それがどうして快いことでないことがあるか。

講義の方がうまく吸収できる、という感覚がある。たぶん、当事者的役割の濃さの問題だと思う。
没入感に差が出るのだろう。相手と言葉を交わすよりは、講義を聞いている方がより仔細に観察できる。余白の問題、距離の問題だ。



どうも、韜晦的なぼくは伝わるように説明するのを嫌う節があるらしい。すべてが明瞭に理解できるような細やかな文章を書く気になれない。何故だろう。


たとえば、その痛みから逃れるなら

死を孕む激情が、ああ!
どうかぼくを蝕みませんように、
あなたを抱いて眠るぼくの右腕に
ただそれとわかる焼印だけを残して
そうしていつでも
ぼくに寄り添っていますように

この炎が、
いつまでも絶えることのないように
ぼくはその身を焼き尽くすのです
あふれる焦げたその四肢を
放り出してゆくのです
愛おしいこの苦痛を、
かすかに灯る理性でもって抱きしめます
そうしてぼくは、
痛みそのものになるのです。

だからもうどこも痛くないねって
誰かに笑いかけたそのからだは
オシマイの激情の内側に居る
ぼくはまた
「何も変わらないね」
と呟いて
焼印をただ
愛おしそうに撫ぜる


さようならさようなら
ぼくが居られなかった、
やさしくて愛に満ち溢れた世界。


(橘優佳)

世界の解釈

迸る感情が、表出を求めてぼくの内側を喰い破ろうとする。
何への愛だろうか。そもそもの彼への愛か、知への愛か、優しさへの愛か、柔らかさへの愛か、それとも愛への愛か。
強烈な行き場のない感情はどうしようもない文章になって、小さな世界をひとつ創り上げる。なにかに繋がればいい、と呟いてはみるが、もとより目的なぞ存在しないのだ。
書かれるべくして書かれた、そこに必然性こそあれど必要性などは端から持ち合わせていない。そういう文章は、たとえばこうして描かれる。


ぼくはどこへ行きたいんだろう。ときどき呆けた顔をして、虚空を見つめながら問うてしまうのだ。何がしたい、ではなく、どこへ行きたい、のか。

終着点はあるのだろうか。求めているのだろうか。いや、なにかを外部に求めているというよりも、ぼくはただ単に、自らに潜む空虚さを埋めようとしているだけのような気がする。

ぼくの世界の解釈は、本来的な熱を持たない。まだ、上手く言えないけれど。解釈自体は冷え切ってしまっているような、ぼくが色を撒くのに成功すればその部分だけ一時的に熱を持つような。
いまのぼくは世界のことを考えるのがとても楽しい。ニーチェハイデガーセネカプラトンまで、さまざまに感じて考えたひとりの人間である彼らの思考に埋没することも、とてもとても楽しい。たとえばギリシア神話を創り上げ信仰した彼らのことや、その神たちの見ていた世界でさえも、本当に面白く思う。
ただ、そのぼくが今感じている楽しさ、火照る熱の裏側には、どうしようもなく埋められない空洞が存在するのだ。彼は思い出したように時たま顔を出してはぼくに問いかける。おいおいまさかぼくのことを忘れているわけじゃああるまいな、と。問いかけられたぼくは、ああ、とその場で一度立ち止まってしまう。なにを忘れていたんだっけ。ぼくは何を考えていたんだっけ。足りないものはなんだったんだっけ。ぼくはそれを知っていたっけ。そうして止まった足は鉛のように重くて、その場から容易に動けそうにはない。空虚をただ見つめ続けることしかできない期間が始まる。
でも、漠然とだけれど、これは忘れてはいけない空洞だと思う。ぼくの身に定期的に起こる気分的な空虚さと、ぼくの世界の解釈に空いた空洞は、なにか同じもののような気がする。まあ、まだ具体的にはなにもわからないのだけれど。

何が間違っているだとか、ほんとうはぼくらにはきっと言えないのだ。
ぼくの世界のぼくの解釈、きみの世界のきみの解釈。そうしてぼくはきみの世界のきみの解釈しか解釈できない。ぼくらは同じものを見れてはいない。見ることは決してできない。きみの見た青い空は、ぼくが見てもほんとうに青いのか。確かめる術はない。

でも、それでも、ぼくらの視線が交わるのは、交わることができるのは、何故なのだろう。

わからないことはたくさんある。わかれないこともたくさんある。
でも、少なくともいまぼくはぼくの世界を、そう解釈している。



ぼくらの愛のしくみ

ぼくの周りのひとたちはやさしい話を愛していて、ぼくはそれに時折、少しだけがっかりする。

なぜやさしいものを愛するのか、なぜあたたかいものを愛するのか。もしくは、なぜひたすらに愛することができるのか。
ぼくらは人間を愛せてしまうと百の口が揃って言うのに、ではなぜ、ひどくやさしいものを愛するのだろうか。


「それが心地いいのだ」と、まるで決まりきった仕草で振る舞う道化のように。




(橘優佳)

Wissen

無音で響く吐息
ぼくらのパトス
消え入りそうなその光が
新しい日の目を見るのはいつだ

解き放つ方法を知らないぼくは
嘔吐によって自らを損なう
そうして表現をする
でも、それでも
たとえばぼくが
その姿を嘲笑い
彼らに向けて
満面の笑みを放てるようになれれば


ああ!
世界はこんなにも輝いているのに
何故ぼくらはここまで大人しくなってしまったんだ?
ぼくたちはこんなにも雄大なのに
何故こんなにも縮こまってしまっているのか?
叫べばよかった、ただそれだけがぼくたちには欠けているのだ
知るものを知らず
知れぬものを知り
そうしてぼくらは無知な生を重ねる
そうしてぼくらは激情に駆られる者を嗤うのだ!

ぼくらは何を知ったというのか
ただ功利にのみ耳を傾け
そうしてぼくらは何を知り、理解したというのか
ぼくらは、何を知りたかったのか

ぼくは、ぼく自身を嘲笑すべきものとして
そうやって何かに向かって絶えず歩ませるように
そうして生まれてきたのだ


(橘優佳)



ぼくの生は言わば絶えざる克己なのだろう。
生き続ける限り付きまとう「死」が落とすその影、胸を押さえて唸り苦しむぼくは、それだからこそ目指すことができる。
ぼくはぼくの内を彷徨うことしかできないが、
おそらくきっと、それがすべてだ。